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所在地 京都市伏見区小栗栖小坂町 明智藪は2つあり、一つは福知山市の堤防。 もう一つが、京都市伏見区にある。 最寄駅は地下鉄醍醐駅です。 京阪バスに乗り、南小栗栖下車。 ほそみ医院の建つ交差点を西へ。 しばらく行くと、北側に浄土真宗本願寺派松影山正覚寺がある。 蓮如上人御舊跡と云う。 本堂はこんな感じで特に由緒ある寺という感じ無し。 突き当りの二又に分かれる所に小栗栖八幡宮が鎮座。 所在地 京都市伏見区小栗栖宮山町 主祭神 応神天皇・神功皇后・武内宿禰 創建 貞観4年(864)9月22日 御由緒と由来。 【小栗栖八幡宮】 創建は、清和天皇の御字武内宿祢末裔紀興道が、貞観4年(864)9月22日に男山八幡宮を奉遷した。 紀興道は、参議紀朝臣梶長の子で小栗栖姓を名乗り、神主を務めた。 弘和2年(1382)飯田民部卿越中守永盛が引継ぎ、寛政元年15代民部卿能登守明夫法印まで務めたが、南小栗栖に渡し、中津瀬氏が神主となる。 足利時代には社領36石あり、室町将軍滅亡後は当社も衰え、天文6年(1537)2月社頭焼亡した。 社宝古記などは焼滅している。 大正8年3月15日指定村社となる。 【由来】 紀興道という人が、関東守護職を命じられ下向するに当り、男山八幡宮の分霊を勧請して当八幡宮を創建した。 社頭が東に向いているのはそのためである。 祭禮は、4月15日と9月15日。 大祭は、11月1日と1月15日は左義長が行われる。 地頭は飯田左近将監。 左近屋敷は、神主で、小栗栖城主で、飯田家の屋敷であり、現在は石垣のみ残る。 本殿。 この付近に室町時代には、小栗栖八幡宮の神主で地元の武装集団でもあった飯田氏の小栗栖城があったと云う。 さて、小栗栖八幡宮を北へちょっと登ったところが明智藪です。 明智藪の碑。 説明板。 【明智藪】 近江坂本城主明智光秀は、天正10年(1582)6月2日早朝、中国地方へ出陣のため上洛していた織田信長を本能寺に襲撃して自刃させた。 本能寺の変である。 その後、光秀は、6月13日、山崎の合戦で秀吉軍に敗れ、近臣10数名とともに暗夜に乗じて坂本城を目指したが、途中小栗栖の付近にさしかかったところを信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃により、あえない最後を遂げたと言われている。 この明智藪は、今日に至るまで戦国武将明智光秀の終焉の地として伝えられており、現在は西側にある本経寺の寺領となっている。 平成3年2月吉日 京都洛東ライオンズクラブ建之 ここからは深い藪で、先へ進む気が退けた。 明智光秀は落武者狩りの農民に襲撃されたと思っていたのですが、この碑によると何と清和源氏の武運の神を祀る八幡宮の神主一族に襲撃されたということになっている。 それが本当なら、何という最期なんでしょう。 真相は藪の中です… |
京の史跡めぐり
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月の輪殿さん、このあたり僕もさまよいましたが、この明智藪は見つけられませんでした(^^;
そうですか、僕も落ち武者狩りの土民に殺されたと思っていたのですが、八幡宮の神主一族に襲撃されたという話も伝わっているんですね。
いつもながらの月の輪殿さんの史跡めぐりにWPいきますね!
2010/11/3(水) 午後 4:28
Shaneさん
この説は今回初めて知りました。
小栗栖城があったとしたら、さもありなんです。
そんな危ない所を突破しようとしたとしたなら、明智光秀は相当追い詰められていたのでしょう。
2010/11/4(木) 午後 8:45