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(もどる) 御旅所(境外社)を巡る。 御旅所(おたびしょ)とは、神社の祭事の神輿渡御(みこしとぎょ)のときに、本宮を出た神輿を迎えて仮に安置されるところ。 御旅所の多くは、祭事の時の一時的なものであり、祭事が終われば、神様も還幸され、御旅所には神様は不在となる。 御旅所(境外社)マップ。 四条通りに面している。 フジイダイマルの隣り、寺町電気街入り口東側付近。 御旅所東殿。 「八坂神社御旅所」の碑が建つ。 東殿の隣りは四条センター。 普段は土産物を売っている。 祇園祭の神幸祭から還行祭の間だけ衣替え。 神輿が鎮座される。 四条センター西側に御旅所西殿。 ちょっと近づいてみる。 さらに西側に境外社の冠者殿社が遷座。 説明板。 【冠者殿社】 御祭神 素戔嗚尊の荒魂 祭日 10月20日 八坂神社の境外末社。 官社殿社と表記されることもある。 御祭神は八坂神社と同じであるが、ここは荒魂を祭る。 荒魂とは和魂と対をなすもので、神霊のおだやかなはたらきを和魂、猛々しいはたらきを荒魂といい、全国の神社の末社には和魂を、荒魂は別に社殿を設け祭るという例が多い。 もとは、烏丸高辻にあった八坂神社御旅所に鎮座していたが、天正19年に豊臣秀吉の命により、御旅所が現在地に移転した時、樋口(万寿寺通)高倉の地に移され(現在の官社殿町)、さらに慶長のはじめに現在地に移された。 明治45年、四条通拡福に伴い旧社地より南方に後退している。 毎年10月20日の祭りを俗に「誓文払い」という。 昔の商人は神様に商売ができることへの感謝と、利益を得ることに対する償いの意識をもっていました。 この感謝と償いの意識により年1回の大安売りをして、お客様に利益を還元する商道徳がしっかり守られていました。 この本来の誓文払いの精神を継ぎ、商人の方々は商売繁昌を、一般の方は神様の清き心を戴き家内安全で過ごせるよう願って10月20日に大勢参拝されます。 八坂神社 冠者殿社の故地。 四条通となっている。 「御旅宮本町」という町名が名残。 今は、寺町通商店街と新京極の入り口付近で賑やか。 その前は万寿寺通高倉の地にあった。 「官者殿町」の町名が残る。 次に大政所御旅所へ。 市営地下鉄四条駅5番出口南側に聳える大原簿記学校。 その南隅に申し訳なさそうにひっそりとある。 近づいてみる。 「八坂神社 大政所御旅所舊趾」の碑が建つ。 付近の町名は「大政所町」。 説明板。 【大政所御旅所】 ここは、祇園祭(八坂神社の祭礼)の神輿渡御のとき、3基の神輿のうち、大政所(素戔嗚尊)神輿と八王子(八柱御子神)神輿の2基が安置される場所であった。 残る少将井(櫛稲田姫命)神輿は中京区の烏丸竹屋町の御旅所に渡御していたが、天正19年(1591)に豊臣秀吉により、四条寺町にある現在の御旅所に移築・統合された。 円融天皇の時代(969〜984)に、この地に住んでいた秦助正が、夢の中で八坂大神の神託を受け、また自宅の庭から八坂神社まで蜘蛛が糸を引いているのを見て、朝廷にこのことを奏上した結果、助正の家が御旅所となったという。 天文5年(1536)に騒乱のため焼失したが、その後に町の人々が小祠を建て、八坂大神を奉祀し、大政所町鎮護の社として毎年7月16日を例祭日と定めた。 今でも神輿還御の時には神輿が立ち寄り、神職が拝礼する。 京都市 烏丸通りを北上し、少将井御旅所へ。 途中、御手洗井がある。 付近の町名は「手洗水町」。 説明板。 【手洗水町名由来】 例年祇園會中(7月15日〜24日迄)この井を開いて神水を領つ、秀吉の頃町民の申し出により町名となる。 【御手洗井由緒】 此地は往古祇園社御旅所社務藤井助正の屋敷地で庭前に牛頭天王社を建て毎朝この霊水を奉供した。 永禄11年織田信長上洛して御旅所を移転の後もこの井水の格別なるを聞き井戸に施錠し鍵は町分に渡し置き毎年祇園會の時のみ之を開いて諸人へ神水を施行せしめたと云う。 然して東裏竹藪より竹二本を伐り取り山科より丈八の松2本を持参して井前の鳥居に結び付けて七五三縄を張るを例とした以降連綿現在に及ぶ。 明治45年3月烏丸通拡張の為旧地より原形のまま其の東方現地に移す深さ七尋半水質清冷にして都下の名水として著名である。 毎年7月14日井戸換え24日閉じる。 祇園祭の時だけか…。 さらに北上。 市営地下鉄丸太町駅7番出口の上に建つ京都新聞社。 付近の町名は「少将井御旅町」。 烏丸通の西側は「少将井町」。 この付近に少将井という名水の井戸があり、八坂神社の御旅所があった。 今は何も無いが、地下鉄出口付近の京都新聞社の壁面に説明板があります。 【少将井跡】 少将井は平安京の各所にあった名水の一つで、「枕草子」にも名井として挙げられている。 所在地は京都市中京区烏丸通竹屋町下ル少将井町付近とされる。 名前の由来はさだかではないが、歌人の少将井の尼が住んだためとの説もある。 平安時代以降、祇園社(八坂神社)の御旅所があり、現在の祇園祭にあたる祇園会御霊会で神輿が巡行した。 疫病を免れるための霊水信仰に基づくとされ、神輿は井桁の石に安置したという。 祇園社の御旅所は桃山時代ごろ、四条新京極に統合された。 少将井にはその後も社が置かれていたが、上京区・京都御苑内にある宗像神社の社伝によると、明治10年(1877)、同神社に移された。 昭和47年(1972)、京都新聞社が平安博物館(現・京都文化博物館)に依頼して発掘調査を実施した。 平安時代の泉水は確認できなかったが、鎌倉時代から近代までの井戸跡が数多く見つかり、この地が良い水に恵まれ地域住民が利用していたことがあらためて確かめられた。 京都新聞社 (平成18年4月設置) 説明板にあるとおり、少将井にあった社は京都御苑内の宗像神社に移されている。 御祭神は櫛稲田姫神。 祇園祭の後祭の7月24日には、八坂神社より神官が御神饌を供進し、祇園祭の報告を毎年している。 最後に、三条大宮にある御供社へ向かう。 またまた、三条堀川の三条会商店街へ。 商店街の途中に御旅所がある。 祇園祭発祥の社らしい。 説明板。 【八坂神社御供社】 鎮座地 京都市中京区御供町 御祭神 素戔嗚尊 櫛稲田姫命 八柱御子神 祭典日 7月24日(御供社奉饌祭) ≪由緒≫ 貞観11年(869)都に疫病が流行した時、平安京の広大な庭園であった神泉苑に66本の矛を立て祇園社(現八坂神社)の神輿を送り、祇園御霊会が行われた。 当社は往古の神泉苑の南端にあたり御霊会祭日である6月14日(明治以後は7月24日に変更)には斎場が設けられ、祇園社の神輿3基を安置し、神饌を御供えする。 社名、町名はこのことに因むものである。 明治6年村社に列格し、明治39年には村社を廃し、八坂神社の境外末社となる。 当社は、四条京極にある御旅所に対し、又旅所ともいわれている。 正面から。 「祇園又旅御供社」の碑が建つ。 境内の様子。 66本の矛は全国の国数を表していたと云う。 祇園祭の発祥地が神泉苑だったとは知らなかったです。 境外社巡りが終わりました。 改めて… 八坂神社が祇園社という名だったこと。 祀っている神が牛頭天王(疫病の神)だったこと。 神仏習合だったこと。 全然知らなかったです。 (おまけ) 慶応4年の神仏混合禁止によって感神院祇園社が八坂神社になった時、寺にあった仏像やその周りに仏具は、東山二条近くの大蓮寺に移された。 蓮の寺として有名らしい。 祇園社本尊の薬師如来は非公開の為、残念ながら遠目からしか見ることが出来ない。 今年の秋の特別公開で見ることが出来たが、時間が無かったのでまた来年でも見れればいいと思って行かなかった。 ところが、寺のブログによると大変だったのか今後は公開しない方針らしい… 何とまあ |
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