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所在地 広島県福山市新市町大字戸手天王1-1 主祭神 素盞嗚尊・櫛稲田姫命・八王子 創建 天武天皇の治世(672〜686) 式内社・備後一宮 素盞嗚神社 茅の輪くぐり発祥の地 <御祭神> 本殿 素盞嗚尊・櫛稲田姫命・八王子 天満宮 菅原道真公 蘇民神社 蘇民将来 疱瘡神社 比比羅木其花麻豆美神 <疫隈の里> この附近は江熊の里とよばれたところ、古くは江隈とも記された。 江は入江であり、隈はかたすみとも読める。 江ノ隈の読みから、穴の海の入江であったことが伺われる。 奈良時代には古山陽道がこのあたりを通り、海陸交通の要所となり、人の往来につれて市(江熊市)が栄えたところでもある。 <茅の輪神事> 備後の國の風土記に曰く、疫隈の國社。 昔北海に坐します武塔神……南海に出てまししに日暮れぬ。 その所に将来二人ありき。 兄の蘇民将来、甚く貧しく、弟の巨旦将来、富て屋倉一百ありき…… 即ち、詔りたまひしく「吾は速須佐雄の神なり、後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまいき。 蘇民将来「茅の輪」伝承発祥の地として、文献上、最古の記録を残すほか「疫隈の國社」として延喜式神名帳にみえる古い歴史をもっている。 現在も無病息災・厄除けを願って、この伝承に由来する「茅の輪くぐり」の神事を行っている。 素盞嗚尊は武塔天神あるいは祇園牛頭天王とも称され、出雲神話の祖である。 本社は、備後三祇園社の一社で7月の祇園祭は備後地方の夏祭りとして有名であり祭り終了日の深夜、吉備津神社の宮司・禰宜が当社に参詣し「無言の神事」が行われている。 明治初期まで神仏習合の一時期「早苗山天龍院天王寺祇園社」と呼ばれたこともあり、早苗の松の伝承を残した。 素盞嗚神社へは、JR福山駅から福塩線に乗って行きます。 上戸手駅下車。 改札も無い小さな無人駅です。 駅前を東西に走る道は古山陽道と云う。 少し西へ行くと素盞嗚神社があります。 鳥居と参道を正面から見る。 額束に「素盞嗚神社」の額が架かる。 随神門の両脇に戦争の面影が残る。 随神門を潜る。 境内は結構広い。 手水舎。 鉄製かな。 参道の先にあるのは神楽殿。 祇園祭の時にはここに3基の神輿が納められるそうです。 神楽殿の先に社殿があります。 拝殿。 神社で瓦葺は珍しいそうです。 拝殿の裏に本殿があり、間に幣殿がある。 本殿は檜皮葺き入母屋造で、備後福山藩の初代藩主水野勝成の再建と伝わる。 拝殿から覗いてみる。 拝殿には古い額絵馬が飾ってありました。 祇園社の神紋である木瓜紋も見えました。 さて、本殿の南側に「蘇民神社」と「疱瘡神社」が長屋式で建っています。 左が蘇民神社。 説明板。 ここに巨旦将来の家があったと云う。 「茅の輪くぐり」発祥の地 蘇民神社 「備後風土記」によれば、昔、素盞嗚尊がこの地を旅されている時、一夜の宿を求めて大きな屋敷を構え栄えていた、弟の巨旦将来(こたん)を訪ねたが断られた。 次に兄の蘇民将来(そみん)を訪ねたところ蘇民は貧しいながらも快く宿を貸し温かくもてなしました。 年を経て、蘇民将来は素盞嗚尊より疫病厄除けの茅の輪を授けられ、この地に恐ろしい病が流行った時、蘇民将来の一族は病にかかることなく生き延びることができました。 この伝承が基となり、素盞嗚尊をお祀りしている神社では「茅の輪くぐりの神事」が行われるようになりました。 右が疱瘡神社。 中の社殿は赤かった。 本殿の北側には早苗の松が建っていた。 巨旦が植えたものと云われ3株あったそうですが、今は枯れてしまい碑が建つのみ。 代わりに桜が咲いていました。 境内の北側に戸手天満宮が建つ。 戸手天満宮は、元々は本地堂という寺だったが、明治の神仏分離令の際、須弥壇等を撤去し神座を造り天満宮とした。 本地堂 現在の天満宮は、もともと戸手祇園社(早苗山天龍寺天王寺)の本地堂として建立されており、現在の社殿は延享3年(1746)に福山藩寺社奉行に対して本地堂の再建を申し出て延享5年(1748)に再建されたものです。 その後、明治の神仏分離令により取壊されるところを、天満宮に変更して現在まで伝えてきました。 再建時からの改修の痕跡は明治初期になされた若干の改変のみで当時の様子がほぼ完全に保存されています。 平成10年(1998)に、建物老朽化のために屋根の全面葺き替えと、若干の修復を行い再建時の姿に復元されました。 現存する本地堂は、全国的にも20例しかなく広島県内でも2例のみ確認されています。 特に、全国の祇園社で本地堂が現存するのは当社のみで、本来の祇園信仰の祭祀形態をとどめています。 平成18年10月 建立 貴重な建物なんですね。 社務所へ。 まもなく建て替えられるそうです。 「蘇民将来子孫之家」のお札がありました。 夏には祇園祭が盛大に行われる。 また、祇園祭の最後に「無言の神事」が行われる。 近くの吉備津神社の宮司と禰宜が参拝に来るが、神前に対する祝詞奏上以外一言もしゃべらないという。 備中の吉備津神社の分霊を疫隈社(素盞嗚神社)の領地に建てた際に挨拶へ来たことが「無言の神事」という形で残ったのだとか。 最後に御朱印。 京都の八坂神社も元を辿ればここだったんですね。 (おまけ) 古山陽道に面する境内北側の門。 相方城の城門を移築したものと云う。 表から。 車邪魔だなぁ〜 説明板。 境内から移築城門を見る。 素盞嗚神社の西側を流れる神谷川から相方城を見る。 この他櫓が一基あったそうですが、1970年代に焼失したとか。 図書館へ行けば古写真があるかもとのことでしたが、探しに行く時間が無かった。 どんな櫓だったんでしょうね。 |
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