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【浜松軽便鉄道奥山線】 引佐地方の開発を目的に大正元年(1912)細江町の伊藤要蔵を中心に浜松軽便鉄道が設立され、奥山線の建設が計画されました。 当時はすでに、浜松〜二俣、浜松〜中の町に鉄道が開通し、交通は便利になっていましたが、浜松から引佐方面への交通は、あいかわらず徒歩や馬車が中心でした。 鉄道ができれば奥山半僧坊参りの旅客や物資輸送の便がよくなると考えられたのです。 工事は1914年1月着工、同年11月に元城(浜松)〜金指間が開業しました。 その後資金や路線問題で創立以来実に10年余の歳月を要したが1923年に奥山までの全線が開通しました。 開通後は旅客輸送のほか、貨物列車も運転され、引佐町からは、「イグサ」の栽培が盛んだったこともあり畳表、生花、果樹等農作物の出荷に利用されました。 また、戦時中は三方原に軍隊の駐屯もあり、軍の物資輸送にも大きな役割を果たしました。 軽便奥山線は開通以来、半世紀にわたって奥浜名湖の人々や物資の輸送に大きな貢献をしましたが、路線バスの営業やバイク、自動車の普及で経営が厳しくなり、人々に惜しまれつつも昭和38年(1963)に気賀〜奥山間、翌昭和39年遠鉄浜松〜気賀の全線が廃止になりました。 遠鉄奥山線を辿るため、JR浜松駅にやって来ました。 「出世大名 家康くん」がお出迎え。 浜名湖うなぎのちょんまげ。 ピアノ鍵盤柄の袴。 駅の北側。 正面に旧名鉄ホテルがある。 ここに、遠鉄新浜松駅があった。 そして、撮影している所が国鉄浜松駅があった辺りです。 線路は東海道線沿いに遠州馬込駅まで一旦進み、スイッチバックして遠州浜松駅へ向かっていた。 まずは、アクトタワーに登ってみる。 45Fが展望回廊。 500円。 遠くに富士山が見えました。 そして今から歩く方角。 全線25.7km。 浜松城も見えました。 眼下を見る。 遠鉄奥山線はこの辺りを右下から左上に斜めに走っていた。 区画整理によって、線路跡を辿るのは困難になってしまいました。 アクトタワーを下りる。 北にある楽器博物館。 浜松は、ヤマハ、河合楽器、ローランドが本社を置く音楽の町です。 北へ。 この辺りで旧東海道を横断していたのかな。 さらに北西へ。 浜松合同庁舎の南付近に「鹿島線遠州浜松駅跡」の碑が建つ。 鹿島線とは、今の遠鉄西鹿島線のこと。 線路は北西へ。 早馬町の交差点に建つクリエート浜松。 ここに奥山線の起点であった東田町駅、そして昭和33年鹿島線遠州浜松駅との統合後の遠州浜松駅があった。 クリエート浜松の前には、「遠鉄旧線路跡」の碑と、 線路の位置が表示されています。 かなりややこしくなってしまいましたが、今まで辿ってきたのは西鹿島線の旧線。 ここが奥山線の起点。 では、ここから出発進行! クリエート浜松の北口は旧線路に沿って道が造られていました。 振り返って見る。 その先。 旧線路部分が駐車場になっている。 逆から。 遠鉄西鹿島線と合流。 ここから西鹿島線と分岐して新川沿いを西へ。 今は家が建て込んでしまって線路跡は解らないが、新川の南側を走っていた。 かつての様子。 次の駅は北田町駅。 現在は公園になっている。 碑が建つ。 さらに西へ。 「玄黙口跡」の碑が建つ浜松市元目分庁舎前を通過。 南側は曳馬城跡。 ここでちょっと寄り道。 元目分庁舎の北へ行くと、ビジネス支援施設ドリーム館があります。 看板の一番下に「本田技研発祥の地」と書かれています。 「世界のホンダ」は、昭和21年(1946)に本田宗一郎がこの地に本田技術研究所を開設したのに端を発する。 また、「本田技研発祥の地 蛇屋敷跡」の碑もあります。 トヨタは浜名湖西側の湖西市が発祥ですし、スズキは今でも浜松が本拠地。 浜松は自動車の町でもあるのですね。 戻って、曳馬城の北側を西へ。 線路跡は道路部分かな。 国道152号線の向こうの元城駅跡に建つ「ホテルコンコルド浜松」が見えて来ました。 かつては、国道152号線をこんな感じで横断していました。 横断した所に元城駅があった。 かつての様子。 今の様子。 前に来た時は、ホテルの玄関前に元城駅跡の碑が建っていたのですが、撮影しようと思い再訪した時は無くなっていた。 ホテルから浜松城の天守閣が見えました。 浜松城へ寄り道します。 (つづく) (おまけ) 浜松と言ったら、音楽や自動車よりも連想するのは『うなぎ』 戦後浜名湖周辺でウナギの養殖が盛んとなり全国区となった。 浜松では、関東風と関西風の両方の店が入り混じるのですが、詳しくないので駅近の有名店「八百徳」へ。 お店の人に薦められるままに「お櫃うなぎ茶漬」を注文。 おいしかった。 また、浜松は餃子の町でもあるそうな。 もやしを囲むように餃子が円形に並べられている。 餡は、肉よりキャベツが多めでヘルシーだった。 |
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