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登城日 2011年 8月21日(日)曇 難易度 ☆ 場所 大阪市中央区石町2丁目 【楼ノ岸砦】 樓の岸といへるも亦渡邊岸の一名なり、その上方に高樓の見えたるより起れるの稱ならん、一に黒牢潟とも呼べり。 元龜元年七月二十七日三好長逸・三好政康・岩成友通(三好三人衆と称す)、及び三好笑岩等紀州の雑賀衆・讃州の十河衆を加へ、大擧して野田・福島に築き、堀を穿ちて之に據りしかば、信長は之を攻むるに先ち塞を此に築き、稲葉伊豫守通朝を留めて石山本願寺に備へ、後、本願寺兵の據りし所なれども、今その址詳ならず。 (大阪府全志より) 今さだかならず。 或云ふ、福島のほとりなりとぞ。 一名論の岸といふ、義経景時逆櫓の論をせしゆゑ名とす。 (摂津名所図会より) 最寄駅は京阪天満橋駅です。 駅から土佐堀通を西へ。 ここはかつて八軒家と呼ばれる船着場で、当時は大阪駅のような一大ターミナルだった。 八軒家跡にある永田屋昆布本店。 店の前に碑が建っています。 説明板。 八軒家という名は八軒の船宿があったことに由来する。 浪花名所図会の広重の絵。 付近はビルが建て込んで様相が変わってしまったが、北大江公園へ行く道が何となく往時の雰囲気を感じさせる。 階段を登る。 登って振り返る。 ビルの2〜3階くらいの高低差がある。 この辺りは後に大坂城の外郭。 近づいてみる。 この石垣は当時のものか? こんなものがあることに初めて気づきました。 登った所にある北大江公園。 この辺りに摂津国府があったのではないかと言われている。 また、ここに織田信長が石山合戦の際築かせたという楼ノ岸砦があったとも。 公園を少し東へ行く。 石山本願寺跡に築城した大坂城が見えました。 北大江公園の西側の道。 往時この道は熊野街道だった。 この辺りが熊野街道の始点。 土佐堀通交差点に熊野街道の碑が建っている。 説明板。 この絵図を見ると熊野街道の東側(絵図では左側)に台地の先端がある。 釣鐘屋敷跡。 寛永11年(1634)三代将軍家光が、大坂城へ来たとき、大坂町中の地子銀(じしぎん)(固定資産税)の永久免除を約束した。 その恩恵に感謝して釣鐘をつくり町中に時を知らせた。 この鐘楼は明治3年撤去され、釣鐘は大阪府庁屋上に「大阪町中時報鐘」として保存されていた。 昭和60年地元有志の努力によって、再び元の釣鐘屋敷地へ戻され、日に3回鐘の音をひびかせている。 現地の町名、釣鐘町もこれによる。 かつて釣鐘屋敷跡の南に鎮座していた坐摩神社。 現在は坐摩神社行宮となっている。 この付近が楼ノ岸砦跡との説も。 八軒家の夕景。 現在の夕景。 結局、何処にあったのか解からない楼ノ岸砦でした。 (おまけ) 御堂筋の名の由来ともなった北御堂。 北御堂の沿革によると、石山合戦の敗戦後本願寺の門徒が「楼ノ岸」に新しい坊舎を建立。 その後、津村郷と呼ばれた現在地に移転したと云う。 蜂須賀小六を題材とした『楼岸夢一定』という本。 蜂須賀小六は秀吉より楼ノ岸砦跡に屋敷地をもらい、天正14年(1586)この地で没した。 坐摩神社行宮の西側。 大阪府立労働センター(エルおおさか)が聳える。 建設前の発掘調査で武家屋敷の遺構が発見された。 建物の中にも一部展示されている。 発掘されたものの中には桔梗紋の瓦も。 桔梗紋の瓦から、この地は加藤清正の屋敷地との説があるそうです。 蜂須賀小六の屋敷と加藤清正の屋敷は隣接していたのかもしれないですね。 |
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土佐堀通、八軒家船着場跡〜新選組史跡に行く途中ここを
通りましたよ。
でも楼ノ岸砦の存在を知らなかったのです(^-^ゞ
でも跡形もないのでね。
2012/11/3(土) 午後 7:03
文献には暫し出てくるようですが…
元々、砦ですから。
臨時の城だったので、簡素な造りだったのでしょう。
2012/11/3(土) 午後 9:17