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所在地 大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号 主祭神 坐摩大神(生井神・福井神・綱長井神・波比岐神・阿須波神) 創建 神功皇后の御代 【坐摩神社御由緒】 当社の創祀には諸説がありますが、神功皇后が新羅より御帰還の折、淀川南岸の大江の岸・田蓑島、のちの渡辺の地(現在の天満橋の西方、石町附近)に奉祀されたのが始まりとされています。 平安時代の「延喜式」には摂津国西成郡の唯一の大社と記され、産土神として今日に至っています。 また、朱雀天皇の御代、天慶2年(939)以来祈雨十一社中に列し、以後たびたび祈雨(雨乞い)のご祈請・奉幣に預かりました。 天正10年(1582)豊臣秀吉の大坂築城に当たり替地を命ぜられ、寛永年間現在地に遷座されました。 現在の鎮座地名を渡辺と称するのも、元の地名が移されたもので、全国の渡辺・渡部等の姓の発祥の地でもあります。 旧社地と伝えられる石町には現在も当社の行宮(御旅所)が鎮座されています。 明治元年(1868)の明治天皇大阪行幸の際には当社に御親拝なされ、相撲を天覧されました。 昭和11年(1936)官幣中社に列せられた際に御造営された壮麗な御社殿は、残念ながら戦災により焼失しました。 現在の御社殿は昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート造で戦前の姿のままに復興されたものです。 (坐摩神社御由緒略記より) 楼ノ岸砦があったとされる坐摩神社行宮(御旅所)。 境内の様子。 説明板。 この地に神功皇后が坐摩神を奉祀されたのが始まりと云う。 そして、平安時代には熊野古道の第一王子である渡辺王子社(窪津王子社)があったとも。 鎮座石に由来し、この付近の町名は「石町」となっている。 また、この辺りは渡辺津と呼ばれていた。 淀川岸に碑が建っています。 説明板を拡大。 平安時代後期に嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)がこの地に住んで渡辺を名字とし、渡辺氏を起こした。 (渡辺綱は源頼光の四天王で、大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名。) 渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、各地に散らばっていった。 天正10年(1582)、豊臣秀吉の大坂城築城に当たり替地を命ぜられ、寛永年間に船場の現在地に遷座した。 守護神の遷座とともに「渡辺町」という地名も移ってきた。 「4丁目渡辺」なんて珍しいですね〰 坐摩神社は「いかすりじんじゃ」と読みますが、一般的には「ざまじんじゃ」と呼ばれている。 摂津国一の宮を称する。 手水舎で身を清める。 近づくと自動的に水が出てくる。 社殿でお参り。 境内北側には境内社がずらり。 右から相殿神社。 天満宮。 大國主神社。 繊維神社。 そして大江神社。 茂みの中に狛犬が。 今度は社殿の南側へ。 立派な社務所。 摂津国一の宮だったからか、大阪府神社庁を併設。 何か隠してある。 上方落語寄席発祥の地の碑だった。 江戸時代後期に、ここ坐摩神社境内で初代桂文治が開いた咄の席が上方落語の寄席興行の始まりと云う。碑は9月に建てられたばかりで、10月中旬に桂三枝師匠を迎えて除幕式が行われるとか。 さらに奥へ。 瀧丸稲荷神社と陶器神社が鎮座。 瀧丸稲荷神社。 陶器神社。 【火防 陶器神社】 (祭神) 大陶祇神 迦具突智神 (由緒) 嘉永の頃、愛宕山将軍地蔵を祀ると伝えられ、火除の神として崇敬厚く、特に陶器商人は守護神と仰ぎ、7月23日の大祭には陶器造り人形を各戸競って作り奉納し、地蔵会と共に盛んでした。 当初は靭南通1丁目に鎮座ましましたが、明治40年市内電車敷設のため、坐摩神社に移転合祀されました。 祭礼には瓢の水を以って火を防ぐとの故事により、陶制瓢と火の要鎮のお札を笹に結び付け参詣者に授与し、亦陶磁器の端物を贈呈したのが祭の起源とされ、昔日には北は筋違橋から南は四ツ橋迄の両側二百数十店もの陶器店が軒を並べていたものです。 其の後昭和20年戦災に遭い、26年6月西横堀浜筋に再建、せともの祭と共に復興いたしました。 然し、46年阪神高速道路の敷設により、再度立退きのやむなきとなり、ここに崇敬者の浄財と各地陶芸作家諸先生の賛助により、陶器神社の名にふさわしく陶器の宮として当所に御造営の上、同年11月遷宮鎮座し奉りました。 (陶器神社の栞より) 陶器物がずらり。 信楽焼の燈籠。 坐摩神社の狛犬が何故陶器製なのかが解かりました。 しかし、何故陶器神社のマスコットが「なにわの元気猫」なのかは解りませんでした。 西側から出る。 こちらには、陶器神社の陶板碑がある。 最後に御朱印。 大阪の街歩きも結構おもしろいですね。 |
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