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登城日 2011年 1月10日(月)曇 難易度 ☆ 場所 神戸市兵庫区中之島 【兵庫城跡と最初の兵庫県庁】 天正8年(1580)池田信輝と輝政父子が花熊城を攻め落とした功によって兵庫の土地を与えられてから、兵庫は、それまでの室町幕府の権力を離れ、東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して、新たに織田信長の手に入り、これを機会に池田氏は花熊城の遺材も加えて兵庫城を築いた。 その地点は現在の切戸町、中之島中央市場にかけて東西、南北ともだいたい140mの地域で、周囲には幅3.6mの堀があった。 古来兵庫は、源平の合戦、湊川合戦以来たびたび大きな合戦があって、そのつどひどい戦災を受けた。 兵庫に古いものが少ないのもその為であろう。 しかし、信長・秀吉による全国統一がなってからはこの地方ではもう合戦がなく、兵庫の町は平和に栄えていった。 兵庫城跡は江戸時代に入って元和3年(1617)尼崎藩領となって、藩の陣屋となり、明和6年(1769)幕府領となってからは大坂町奉行所に所属して、与力や同心の勤番所として明治になるまで続いた。 新政府は慶応4年(1868年同年9月8日明治改元)1月22日にこの城跡の一部に兵庫鎮台を設けたが、2月2日に兵庫裁判所と名が変わり、5月23日にまた「兵庫県」と改められた。 つまりここが最初の兵庫県庁である。 その後県庁は同年9月18日、今の紳戸地方裁判所の場所に新築移転、さらに明治6年5月現在地に移転した。 明治7年(1874)新川運河の開削が行われ、城跡の中心地はほとんど川敷になってしまった。 兵庫県 神戸市 岡方協議会 最寄駅は神戸市営地下鉄海岸線中央市場前駅です。 駅の壁面に掲示してある案内板。 7番が兵庫城跡です。 新川運河を渡る。 かつて、この辺りに兵庫城があったと云う。 運河の西岸に碑と説明板が建っています。 碑と説明板。 (説明板は前述) 兵庫城は天正9年(1581)に花熊城を攻略した池田恒興(信輝)・輝政父子によっては花熊城の資材を用いて築城されたが、天正11年(1583)に大垣城へ移封となり廃城。 わずか2年と短命な城だった。 その後、片桐且元が代官として入城し「片桐陣屋」と呼ばれた。 江戸時代には兵庫津奉行所や勤番所が置かれ、明治維新を迎えた。 明治時代になると、この地に兵庫県庁が置かれ初代兵庫県知事に伊藤博文が就任した。 明治7年(1874)新川運河の開削によって消滅してしまった兵庫城跡。 どんな城だったのか? 運河を少し下ると新川運河の説明板があります。 【新川運河の歴史】 江戸時代までの兵庫津は、政治・経済・文化の中心地でしたが、幕末の開港を境に、都心の機能は東へと移っていきました。 兵庫津には、江戸時代以来の舟入場が南北に二カ所あったものの、いずれも狭く、しばしば船舶が風難に遭うため、地元ではこれを解消し、退勢を盛り返すための取り組みの一つとして新川運河の開削を明治7年(1974)に開始。 当時の第二区長神田兵右衛門らは、和田岬を迂回せず兵庫に入港できるよう、駒ヶ林の海岸から兵庫を結ぶ運河を計画しましたが、財源の目途がたたず、結局、半円形の運河を開削し、運河周辺に市街地を造成するにとどまりました。 工事の費用は、兵庫の町の税積立金と北風家など資産家の出資による官民協力の形を採り、運河は明治9年5月に完成。 築島寺の正面を運河が通り、その西の舟入場は大半が埋め立てられ市街地となり、切戸町の勤番所跡地などは運河に囲まれて中の島とよばれるようになりました。 明治26年には、兵庫運河株式会社が和田岬を迂回しない当初の運河計画の実施にようやく乗りだし、同29年に開削工事着工、同31年にほぼ完成。 新川運河と東尻池の海岸とを結ぶ運河本線、兵庫駅付近と本線を結ぶ支線、述べ25kmを、年に船舶5万隻、筏(いかだ)1万連ほどが利用したといわれています。 また、開削による土砂で海口部の浅瀬を埋め立てして刈藻島を造成。 運河の開通で船舶の往来活発になるとともに、荷揚場や道路なども新設され、運河近辺は倉庫・工場が立ち並ぶ市街地に変容していきました。 その後、運河のしゅんせつや護岸修築、橋・道路の改修などの面で問題が起こり、新川運河も一体的運河のため、大正8年(1919)に県から市に移管されました。 元禄9年(1696)兵庫津絵図。 兵庫城跡に建てられた兵庫津奉行所が見える。 新川運河開削により兵庫城跡は消滅。 さて、兵庫城は町の外郭に土塁を設け、堀をめぐらし、出入口に番所を設けたと云う。 東側の湊口惣門跡。 説明板。 兵庫城内を西国街道が通っていた。 境内には、迷い子のしるべ石(警察活動の行き届かない時代に、迷子さがしの方法として考えられた建て石)があった。 西国街道を進まずに、JRに沿って兵庫駅方面へ進むと、門口公園がある。 この辺りに兵庫城の北門があったことから門口町と名が付いたと云う。 この公園の北側には都賀堤という土塁が、明治8年まであった。 説明板。 土塁は崩されてしまって跡形ないというが… これは名残だったりして。 さらにJRに沿って進むと柳原交差点に到達。 ここに西側の柳原惣門があった。 説明板。 太平記合戦図があるそうです。 普段は訪れる人もなくさみしい感じ。 しかし、毎年1月9〜11日の柳原十日えびす大祭の大黒祭には大勢の参拝客で賑わう。 隣の柳原えびす神社。 福を求めて人々でごった返す。 この日は柳原惣門前に露店が立ち並び全く見えません。 帰りはJR兵庫駅から帰りました。 県名の由来となった兵庫城でした。 (おまけ) 奥平野の地に豊国稲荷神社がある。
住宅地内にある鳥居。 ここから少し行くと山道に… しばらく行くと、脇に廃屋のような神社があった。 この神社は元々兵庫城内に鎮座していたそうで、社殿内には豊臣秀吉と片桐且元の木像が安置されているとか。 あまりに薄気味悪くて覗く気になれませんでした。 魂を吸いとられそうで… |
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兵庫城発見(*^ー゜)b
行って来ましたのでTBさせて頂きます。
しかし細かく巡られていますね。時間がなかったので
とりあえず石碑&案内板のみで終了しました(^-^ゞ
2012/10/20(土) 午後 6:41
るなさん
有難うございます。
2012/10/20(土) 午後 10:43