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場所 三重県亀山市田村町名越 ヤマトタケルは東征の帰路に伊吹山に荒神がいることを聞き、その荒神を征伐するために伊吹山に向かった。 しかし、荒神との対決で大きな痛手を負ってしまう。 病身となってしまったヤマトタケルは、弱った体で大和を目指して進む。 その後、能褒野に到ったヤマトタケルはついに力尽き、 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるわし と、国偲び歌を詠って亡くなってしまった。 ヤマトタケル最期の地である能褒野は諸説ある。 そのうちの一つ、三重県鈴鹿市の白鳥塚を目指す。 最寄駅はJR関西本線加佐登駅。 駅前の坂を登って行くと宝冠塚がある。 ヤマトタケルの冠を塚に収めた所と云う。 しばらく行くと、今度は宝装塚。 ヤマトタケルの装束を収めた所と云う。 駅から約20分歩いて加佐登神社に到着。 境内図。 鳥居が建ち並ぶ参道を進む。 結構急な階段を登る。 また鳥居。 またまた鳥居。 振り返る。 ふぅ〜 鳥居や灯籠が建ち並ぶ平坦な参道を進むと、 山上の境内に到着。 由来記 。
【加佐登神社由来記】 (祭神) 日本武尊 天照大御神(他14神 明治41年合祀) (由来) 古事記・日本書紀によると日本武尊は第12代景行天皇の皇子でした。 生れつき武勇にすぐれた尊は若くして九州の熊襲、出雲を平定し、つづいて東国の蝦夷征討へと旅立ちます。 尊は各地で戦い勝利を続けましたが、伊吹山の戦いで傷つき病におかされ動かぬ身体を引きずってこの能褒野に辿りつき大和を望んて短い生涯を終えたとされています。 大和は国のまほろば たたなずく青垣 山こもれる大和しうるわし 本殿北の白鳥塚は県下最大の円墳(平成17年の調査により、帆立貝式の前方後円墳であることがわかりました。)で、古くから日本武尊の御陵とされ本居宣長、平田篤胤らによって延喜の諸陵式の能褒野墓と考えられました。 この白鳥塚のそばに、尊が死の間際まで持っておられた笠と杖を御神体としてお祭りしたのが加佐登神社の始まりです。 明治以前は卸笠殿社と称され、諸病平癒の霊験あらたかで、人々の篤い信仰を受けてきました。 大祭は、日本武尊の命日と伝わる、4月8日。 古代、この地は景行天皇が行在所を置かれたことから高宮の里とも呼はれ、附近には綺宮跡や、奉冠塚、奉装塚など多くの古い塚が残っており、神苑は県下有数のつつじの名所として知られています。 (祭日) 大祭4月8日・初八日大祭1月8日・月次祭毎月8日 例祭10月8日・春祭2月21日・秋祭11月30日 手水舎で身を清める。 境内東側にも手水舎がある。 拝殿へ。 拝殿でお参り。 拝殿の様子。 ヤマトタケルノミコト。 社務所へ。 いろいろ親切に教えてくれます。 御朱印をいただく。 境内の裏山にある白鳥塚古墳へ。 白鳥塚古墳の碑。 白鳥塚古墳。 古来からヤマトタケルの墓とされてきた。 説明板。 三重県指定史跡 【白鳥塚古墳】 昭和12年11月10日指定 平成18年3月17日追加指定 この古墳は古くから日本武尊(倭建命)の墓との言い伝えがあり、尊が葬られた後に白鳥となり飛び立ったという伝説にちなみ白鳥塚と呼ばれている。 かつて県内最大の円墳とされていたが、近年の発掘調査の結果、東側に造出しを持つ帆立貝式の前方後円墳であることが判明した。 墳丘部は78mで、円丘部は高さ1.5m、径77mの基壇上に二段に構成されており、葺石・埴輪を有する。 方丘部は丘陵を幅8mの溝で区画することにより形作られている。 埴輪には円筒埴輪・朝顔形埴輪のほか、壷・蓋(きぬがさ)・盾形の形象埴輪があり、その形式から5世紀前半に築造されたとみられる。 鈴鹿川流域を支配した首長の墳墓である。 平成21年3月 鈴鹿市 上から見るとこんな形だそうです。 江戸時代にはここがヤマトタケル最期の地である能褒野と有力視されていたが、明治になって亀山市にある丁子塚がヤマトタケルの陵墓とされた。 行ってみる。 最寄駅は隣の駅のJR関西本線井田川駅。 駅から歩くこと30分、安楽川の北岸に丁子塚が見えてきました。 丁子塚入り口。 説明板発見! 説明板。 【能褒野王塚古墳】 (景行天皇皇子日本武尊能褒野墓) 御幣川と安楽川の合流点に近接する、標高45m程度の段丘端部に所在する前方後円墳である。 全長90m、後円部径54m、同高9m、前方部幅40m、同高6.5mで、北勢地域最大規模の古墳である。 この古墳から採取されたという鰭付朝顔形円筒埴輪や器材埴輪から四世紀末頃の築造と考えられる。 これらの埴輪は、奈良県北部地域や京都府西南地域との関係がうかがえ、畿内周辺地域の勢力が濃尾地方へ伸展するルート上にある地理的条件によってもたらされたものであると考えられよう。 日本武尊(倭建命)が東征の帰路に伊勢国能褒野(能煩野)で薨じたとの『記紀』記述により、明治12年(1879)内務省によって「景行天皇皇子日本武尊能褒野墓」に定められ、墳丘の修復に併せて、畿内の王陵墓に倣い周庭帯が設けられた。 しかしながら、近世においてはこの古墳が日本武尊の墓という認識はほとんどなかったものと見られる。 周囲に十数基の円墳が所在し「陪塚」とされているが、これらは後期古墳と考えられる。 平成15年10月 亀山市教育委員会 鳥居。 まずは、能褒野神社へ。 手水舎で身を清める。 もう一つ鳥居。 社殿。 能褒野神社は、明治12年(1879)に丁子塚がヤマトタケルの陵墓に治定されたのち、地元の有志によって創建された。 主祭神はもちろんヤマトタケル。 御朱印をいただこうと思ったのですが、誰も居ず断念。 丁子塚へ向かいました。 能褒野神社参道の反対側を進みます。 付近には陪塚。 家臣の墓だろうか。 古墳参道を登る。 能褒野王塚古墳(丁子塚)。 前方後円墳ということは、上へ登ってしまったのだろう。 宮内庁が管理しているのでここまで。 ヤマトタケルの死後、一羽の白鳥が大和へ向かって飛んで行ったと云う。 (つづく) (おまけ) JR亀山駅前の大鳥居。 能褒野神社の一の鳥居だそうです。 この鳥居を参道と信じて歩き始めると力尽きてしまいます。 ご注意を! |
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月の輪殿さん、とっても興味深いです!
日本武尊のお墓は諸説あるんですね。伝承も語り継がれていないケースもあるかもなので、それ自体では決め手にはならないでしょうし。。。
WPいきますね!
2011/10/16(日) 午後 9:49
Shaneさん
古事記と日本書記では微妙に内容が違うようです。
また、墓の特定の二転三転しており、どうしてこの墓が特定されたのかも今ひとつ。
謎が多いヤマトタケルの墓でした。
2011/10/18(火) 午前 0:05