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登城日 2011年10月 1日(土)晴 難易度 ☆ 場所 兵庫県加古川市加古川町木村宮本658 最寄駅はJR山陽本線加古川駅。 神姫バスに乗って「木村」下車。 バス停から南西に歩くとこんもりした森が見えてきます。 ここが石弾城跡と云う。 道路脇の窪み。 堀跡に見えてしまう。 鳥居。 社前では無く西にある。 境外社かな。 社前には泊川が流れている。 万葉集、柿本人麻呂の歌。 「稲日野も 行き過ぎかてに 思へれば 心恋しき 加古の島見ゆ」 (稲日野も行き過ぎ難く思っていたところ、心惹かれる加古の島が見える) 海岸線は今より近く、風光明媚な島が見えたのだろう。 今は地続きになってしまって解らない。 鳥居から境内を見る。 泊神社は、宮本武蔵の養子・伊織ゆかりの宮として知られる。 山門。 山門の中の像。 御由緒。 【泊神社御由緒】 神代に、天照大神が天岩戸にお隠れになったとき、大神の怒りを解く為に、群神事計り御鏡を造った。 後に一つは伊勢神宮に祀られ、一つは海に流された。 大和時代に、それが泊まり着いたところに檍の木が有り檍原泊大明神として祀ったのが当宮の起こりである。 大昔は 此の辺りは海浜であり、泊の神号は以上から由来する。 飛鳥時代には、聖徳太子が鶴林寺を建立の際、側近の棟梁の秦河勝が、紀伊の国から自身の氏神である国懸大神を勧請し社殿を建立した。 南北朝には石弾城が築かれていた。 降って承応2年(1653)には、宮本武蔵の甥で養子の宮本伊織が、小倉藩筆頭家老に就き、故郷の氏神である当宮の荒廃を歎き武蔵の供養の意を込め浄財を寄進し、全社殿一式を再建した。 以後宮本家氏神とし一族より崇敬された。 社格正一位、社領十石を給わる。 明治には郷社格に列せられる。 主祭神は天照大神、国懸大神、小彦名大神。 末神は稲荷神、八幡神、菅神等所願成就神徳。 手水舎。 脇の加古川市の説明板には、石弾城の石垣と思われるものがあると書かれていた。 山門を境内から見る。 手前の太鼓倉は国の登録有形文化財。 山門脇に能舞台。 国の登録有形文化財。 社殿を見る。 正面から。 拝殿の中の様子。 宮本伊織が奉納した棟札のレプリカ。 この棟札から、宮本武蔵の生誕地が美作宮本村ではなく、播磨米田村説が有力となったと、境内にいたご近所の方が力説されていました。 (吉川英治が小説を書いた頃には、この棟札の存在は知られていなかったとも。) ちなみに、宮本武蔵や伊織は赤松氏(春日部家・丹波黒井城主)子孫とも書かれている。 伊織は、三十六歌仙絵馬も奉納。 神楽殿でお参り。 国の登録有形文化財。 神楽殿の奥に幣殿と本殿。 国の登録有形文化財。 玉垣お中にあった狛犬。 伊織寄進の石灯籠は撮り忘れた。 本殿裏から摂末社を見る。 白竜稲荷神社。 月読神社。 熊野神社。 国の登録有形文化財。 境内西側へ。 皇孫神社と日本媛神社。 大池稲荷神社と日吉神社。 泊稲荷神社と住吉神社。 住吉神社は国の登録有形文化財。 種子神社。 国の登録有形文化財。 種子神社の横に石弾城の碑と説明板があります。 説明板 【石弾城址】 城主は、大井三樹伊豫守宰任従五位左京亮で、暦応2年(1339)8月30日雁南荘地頭職を給わり、この城に居を構えた。 次宰の五男に雁南右衛門四郎勇という者がいて、永禄元年(1375)5月5日父の跡を継いだ。 正六位に任じられ、主馬助と号し赤松氏に従っていた。 この勇の長男に雁南刑部太郎長という者がいて、享徳3年(1454)家督を継いで木村源五郎と号した。 父にしたがって武功があったが、康正元年(1455)父勇討死の後、なおこの石弾城を固め守っていたが、長禄元年(1457)3月、山名宗全に攻められ討死して遂に落城した。 昭和59年3月 加古川市文化財保護協会 境内西端にある祠。
四角い曲輪の周りに池。 最後にもう一度社殿を見る。 秋祭りの準備中でした。 泊神社を後にしました。 境内を囲む玉垣がきれいになっていることから、説明板にあった南北朝期の石垣は無くなっているのだろう。 見当たらなかったです。 赤松則尚が鹿久居島で自害した後、山名宗全により播磨国内で赤松氏に味方した者の掃討が行われ、この城も攻められて落城したようだ。 |
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