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所在地 京都市下京区高辻通室町西入繁昌町308 主祭神 宗像三女神(田心姫命、市杵島姫命、湍津姫命) 創建 平安時代初期 【繁昌社】 繁昌社の祭神は宗像三女神、田心姫命、市杵島姫命、湍津姫命である。 三女神は、海上交通の神で、商品流通の守護から「市の神」として信仰されている。 江戸時代には、功徳院と号し、真言宗の僧によって管理されていたが、明治の神仏分離により神社だけが残った。 当社はもと「班女ノ社」とも、「半女ノ社」とも称し、牛頭天王の妃針才女を祀り、それが転訛し班女となったと伝える。 また、「宇治拾遺物語」巻三の中に、「長門前司の娘が亡くなった後、遺骸を運び出そうとしたが動かず、塚になった」と記す。 この塚が、社の北西方向(仏光寺通に抜ける小路の中ほど)に現在も残っている「班女塚」だと伝える。 後世の書物に、「班女と繁昌は同音の為、男女参拝し子孫繁栄を祈願する」と書かれ、縁結びの神として詣でられる他、市杵島姫命は仏教の「弁財天」と解されることから、商売繁盛・諸芸上達の利益があるという。 京都市 烏丸高辻の交差点から高辻通を西に入り少し進むと北側にあります。 付近の町名は「繁昌町」。 繁昌神社に因む。 室町の商人には大変崇拝されているだろう… と思いきや、「繁昌」という名の割には小さな神社。 人影も無い。 江戸時代は功徳院という寺があったが、明治の神仏分離で神社だけが残った。 手水舎。 本殿。 隣接する社務所は閉まっていた。 用のある方は隣りの多加楽へとのこと。 多加楽はちりめん手芸工房だそうです。 うなぎの寝床ですな。 御朱印はここでもらえるのかな? さて、繁昌神社の旧鎮座地が、北西にあるというので行ってみる。 マンション「カノン室町四条」の西側を進むと塚がある。 ここが旧鎮座地と云う。 説明板。 【班女(はんにょ)塚】 今は昔 平安京の頃、この辺りには藤原氏の邸宅がありました。 その庭の中島に弁財天を勧請したのが「班女の宮」の始まりと伝わります。 かつて、この町は「オハンニョ町」と称し、皆でお宮を守り、お宮に守られながら暮らした町衆の歴史があります。 時代は移り、一帯が商業の中心になった江戸時代頃から、音が転じて「繁昌(ハンジョウ)町」と呼ばれるようになりました。 鎌倉時代の逸話集「宇治拾遺物語」第三章の長門前司の娘の話の舞台は、この地に符号することから、少なくともそれよりかなり古くから神が鎮座していたことを裏付ける証しとされます。 豊臣秀吉公が、この神霊を東山佐女牛へ移そうとしたところが、怪奇に見舞われて断念したと言う記録も残ります。 その後は、「繁昌神社」(高辻通り室町西の北側)と共に神宮寺として真言宗の僧に寄って管理されていましたが、明治政府の神仏分離令により、現在の形を残すことになりました。 いにしえ人の暮らしと信仰に思いを馳せ、今また、繁昌町氏子で繁昌神社奥の院として守っております。 どうぞ本日のご参拝のご縁を末永く心にお留め置き下さい。 平成24年壬辰の年正月 繁昌神社 平安時代には、ここに藤原繁成の邸宅があり、功徳池という池の中島に弁財天を勧請したのが「班女の宮」の始まりとされる。 また、班女とは、牛頭天王の妃針才女(はりさいじょ)が転化したものと云う。 この「班女」がさらに転訛し「繁昌」となった。 隣りにも祠。 と思ったら、「住吉姫松」と書かれた石碑だった。 こちらの碑の由緒は解らなかった。 多加楽を訪ねて聞いておけばよかった… 町名が珍しい繁昌神社でした。 (おまけ) 繁昌神社の南側には成徳小中学校があった。 平成19年(2007)に下京中学校に統合され廃校となった。 現在は、京都文化協会などが入っている。 校内に、「京都市立成徳小学校跡地」「京都市立成徳中学校跡地」の碑が建つ。 隣りには、「栄養給食先駆けの地」の碑も。 昭和11年(1936)、全国に先駆けて「学校栄養食事」と名づけられた給食が開始されたそうです。 さらに隣りには、「軟式野球発祥の地」の碑も。 大正8年(1919)に、京都市第二高等小学校(後の成徳小学校)で京都少年野球研究会が軟式野球大会を開催したのが、我国はもとより、世界に普及した軟式野球の始まりだそうです。 お見逃しなく。 |
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月の輪殿さん、繁昌神社という神社があるんですね。
この辺り藤原氏の屋敷跡だったんですね
廃校となった小学校の建物は威厳がありますね。街中でも子供の数が少なくなっているのでしょうか。
WPいきますね!
2012/3/15(木) 午後 11:54
Shaneさん
京都の小中学校は統廃合が進んでいるみたいです。
意味ありげな名前の学校名が消え、あふれた名前の学校になってしまうのは時代の流れでしょうか。
2012/3/16(金) 午後 10:40