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所在地 京都市上京区智恵光院五辻上ル紋屋町330 山号 慧光山 宗派 法華宗真門流 本尊 三宝尊 創建 長享2年(1488) 開山 日真上人 【本隆寺】 法華宗真門流の総本山で、正しくは慧光無量山本妙興隆寺という。 法華宗京都八本山の一つである。 開山は中山大納言親通卿の子・日真で、後に、後柏原天皇により日蓮聖人の正当な流れであることを証する大和尚の称号が下賜された。 当寺は、長享2年(1488)に四条大宮に創建されたが、四代日映のとき、天文法乱により焼失し、天文11年(1542)に現在地に再建された。 十代日遵のとき、京都御所の炎上により類焼し、明暦3年(1657)に名匠坂上作左衛門が再建した。 享保15年(1730)と天明8年(1788)の二度の大火では、西陣一帯が焼野原となったが、当寺の本堂と祖師堂は、奉祀している鬼子母神の霊験によって焼失を免れ、それ以降、「不焼寺」と呼ばれるようになった。 三千三百坪の境内には、西陣五井の一つの名井「千代野井」や、松葉を枕の下に敷くと、子どもの夜泣きがやむといわれる「夜泣止の松」がある。 本堂、祖師堂、客殿、番神堂、鐘楼、経藏、宝藏、南門、塔頭八ケ院等の諸堂を有し、宝物として、日蓮上人真筆大曼陀羅、法華玄論、十六羅漢絵像、名器三管、法華経七万字版木等を藏している。 京都市 またまた、四条大宮から。 長享2年(1488)日真が四条大宮西に堂宇を建立し「慧光無量山本妙興隆寺」と称したことに始まる。 天文5年(1536)に起こった「天文の法乱」によって堂宇を失い、泉州堺(今の大阪府堺市)に避難し留まること6年、天文11年(1542)の春、旧跡は室町幕府の収める所となっていたため、杉若若狭守の邸跡地を得て再興したのが現在地である。 境内図。 柵がしてあったので、ぐるーっと廻って智恵光院通に面した東門へ。 境内を入って東門脇に建つ素敵な建物は民家らしい。 右手に手水舎と桜。 桜まみれの手水鉢。 左手に鐘楼。 一旦南門へ。 南門を見る。 南門から本堂を見る。 参道を進む。 西側に番神堂。 横に経蔵。 祖師堂へ。 境内はちょっとした桜の名所。 祖師堂。 夜泣止松。 説明板。 【夜泣止松の由来】 大永4年(1532)元旦の朝、當山五世日諦、看經のため昇堂するや、一婦人、嬰子を上人に託し養育を乞う。 夜中に嬰子の母を慕って泣くこと屡々なり。 上人抱いてこの松樹の周囲を巡るに、不思議なるかな、夜泣きたちまち止む。 世人呼んで、「夜泣止松」という。 嬰子長じて 知恵抜群、学識一世に高し。 後に當山七世の名僧日脩となる。 天正8年(1580)、正親町天皇より「法印」の称号を受く。 本堂。 天明の大火の際、本堂・祖師堂・宝庫は焼失を免れ「不焼寺」という異名を持つ。 本堂の前に、千代野姫が満月の夜、この井戸で水を汲んでいたとき、桶の底が抜け月影が水とともに消えたので仏道に入ったとされる他、本堂を大火から守ったと云う伝説が残る「千代の井戸」がある。 境内の東側から西側へ。 塔頭宣妙院。 塔頭慶成院。 本坊。 御朱印はここで。 本坊脇の枝垂桜。 奥に客殿がある。 本坊玄関の様子。 本坊前のタカオカエデ。 本坊と本堂・祖師堂との間の路地。 客殿と塔頭本法院の玄関。 塔頭本法院の手前に塔頭玉峯院。 塔頭玉峯院。 境内の西側へ。 塔頭正寿院。 正寿院の西側に墓地。 墓地入り口。 正寿院の南側に塔頭本城院。 塔頭玉樹院。 塔頭是好院。 西門から出る。 西門から境内を振り返る。 西門。 西門を出た所に「杉若町」という町名が残っている。 杉若若狭守の邸跡地に由来。 境内北側、上立売通に面する瓦壁。 通りを挟んで北側に、もう一つの桜の名所「雨宝院」がある。 最後に御朱印。 桜のきれいな本隆寺でした。 |
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