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所在地 富山県高岡市伏木一宮1-10-1 主祭神 大己貴命・事代主命・菊理媛神・奴奈加波比売命 創建 天平宝字元年(757)(養老2年(718)とも) 越中国分寺跡から西へ進む。 少し歩くと南側に社務所がある。 社務所は神宮寺である慶高寺だったもの。 本尊は神仏分離令後、越中国分寺跡の薬師堂へ。 社務所は留守で、御朱印は書かれたものが置いてあった。 眼下に越中国府跡に建つ勝興寺が見えました。 氣多神社の清泉。 氣多神社参道の階段。 説明板。 重要文化財【氣多神社本殿】 氣多神社は養老2年(718)に僧の行基が創建したと伝えられ、また天平宝宇元年(757)に、越中から能登国が分立した後、越の大社と崇められていた能登の羽咋にある氣多大社を、越中国府に近い現在地に勧請したともいわれている。 盛時には越中一宮として境内の周囲に神宮寺である徳証寺をはじめとする大伽藍が並立していたと伝えられるが、寿永年間(1182)に木曾義仲、天文年間(1532〜1554)には上杉謙信と二度の兵火で、ことごとく焼失したという。 現在の本殿は、永禄年間(1558〜1569)に再建されたと伝えられる。 構造は三間社流造り、柿板葺きで、正面に一間の向拝を付け、軒は二重繁棰である。 斗栱は和様の三ツ斗で、軒下両側の面柱の上は舟肘木を用いる。 向拝の斗栱は同じ三ツ斗で、正面の虹梁の上には彫刻した蟇股があるが、これは後代につけ加えたものと思われる。 向拝の柱及び前面の第一列に方柱を用い、他はすべて円柱である。 正面の三面及び両側面の一面は吹通しとし、意匠は簡単であるが、木割が大きく、全体に雄大な風格を備え県内の本殿中もっとも優れた建築物である。 氣多神社本殿は、室町時代の特徴が充分にあらわれており、作風が優秀であると評価され、昭和6年1月19日に国の重要文化財に指定された。 平成21年3月 高岡市教育委員会 階段を登った所にある鳥居。 木が鬱蒼と繁る境内。 顕彰碑脇に越中三賦象型石。 大伴家持が歌に詠んだ越中の三名所を表現。 立山。 二上山。 布施の水海。 本殿へ。 北側の建物。 拝殿でお参り。 拝殿内部の様子。 拝殿奥に本殿。 本殿の額に「一宮」。 空海筆と伝わる。 その奥に掛かる御宝物額はよく見えなかった。 右側の柱の黒い染みのようなものは、武蔵坊弁慶が奥州下向の際に立ち寄った時に柱をたたいた拳骨傷。 けしからん 国の重要文化財である本殿を後にする。 南隣りに御輿堂。 大伴神社へ。 大伴神社。 大伴神社御由緒。 大伴家持の没後1200年にあたる昭和60年(1985)に、地元の有志による大伴家持卿顕彰会によって創建された。 南隣りの建物は社務所かな。 境内を見下ろす。 参道北側に空き地がある。 越中総社跡伝承地「かたかごの丘」。 木碑を拡大。 国府に総社は付き物ですが、一の宮の境内にあるのは初めてかな。 北側から出る。 気のせいか、周囲が土塁で囲まれているように見えた。 神宮寺である徳証寺があった所かな。 大伴家持や義経・弁慶らも見たであろう富山湾。 越中国に4つある一の宮の一つ、氣多神社でした。 (おまけ) 社殿に拳骨傷をつけた弁慶と義経は、この後小矢部川の如意の渡しへ差し掛かる。 越中国府跡近くにある古府八幡社へ。 境内の様子。 境内の奥に如意の渡し碑が建つ。 如意の渡し碑。 説明板。 往古はこの辺りに如意の渡しがあったという。 下から見上げると断崖絶壁。 小矢部川沿いに建つ義経記如意の渡し像。 奥州に落ちのびる源義経が如意の渡しに乗船しようとしたとき、渡守の平権守に義経であることを見破られるが、弁慶の扇で義経を打ちすえるという機転で無事に乗船できたという。 如意の渡し像付近から如意の渡し碑の方を見る。 国府の模型もそうでしたが、往古は台地の下は小矢部川だったようだ。 難所だったんですね。 帰りの伏木駅。 行き先表示にロシア語が。 伏木港はロシアとの交易の拠点になっているそうです。 |
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