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登城日 2012年 8月 9日(木)晴 難易度 ☆ 場所 鳥取県倉吉市巌城 【田内城跡】 田内城は、今を去ること650年、山名時氏公(1299-1371)約20年間の拠城であった。 公は、清和源氏の名流で、上野国多胡郡山名(群馬県高崎市山名町)の出身で、全国66ヶ国のうち12ヶ国を領し、六分一殿と称せられる程の隆盛を見た南北朝時代の知勇兼備の武将で、侍所長官として幕政にも重きをなした。 建武4年(1337)伯耆守護に任ぜられ、その治所としたのが、この仏石山頂に築いた田内城である。 急峻な岩山で、東の山裾には国府、小鴨の両川が流れて自然の堀となり、また、水運にも利用されて城下町が発達し「見日千軒」といわれる程に繁栄した。 時氏公の嫡子師義公は打吹城を築いて、ここに治所を移したので、当城は廃城となった。 小鴨川対岸から見た田内城。
築城当初は「見日千軒」と呼ばれた城下町があったが、天文13(1544)の天神川と小鴨川の大洪水によってすべて流出してしまった。 巌城橋を渡る。 橋の正面が田内城。 覗き込むと「南無阿弥陀仏」の文字が岩に彫られてある。 岩阿弥陀といい、正徳4年(1714)倉吉町民が川の洪水で死んだ人を供養して奉納したものあるいは平安時代の宮廷画家である巨勢金岡が描いたものとか。 まず右へ行ってみた。 東麓に参道。 鳥居の扁額に「田内神社」の文字。 建武4年(1337)に山名時氏が祈願所として勧請したと云う。 城への近道と思い、急な階段を登る。 田内神社へ登ってみるも、ここからの登城道は無かった。 また岩阿弥陀へ戻る。 今度は左へ。 直ぐに登城口発見! な〜んだ。 簡単な城址碑が目印。 縄張図。 (「山陰の城館跡」参照) 矢印に従い登城開始。 途中、石垣のようなものがあった。 主郭近くでも。 主郭到着! 模擬櫓。 土日だけ開いているらしい。 壁面に説明板があります。 主郭から打吹城を見る。 城下町「見日町」方面は木が生い繁っていて見えなかったです。 二の郭へ。 少し進んで振り返る。 二の郭は中央が凹んでいる。 虎口かな。 二の郭の下の所。 二の郭の標識。 凹みを振り返る。 二の郭の上と下とは結構段差がある。 二の郭の下の所を草を掻き分けて進んでみる。 北端部分。 かなり下に平坦地があり、縄張図だとそのさらに北側下に大きな曲輪があるようだが、一度下りたら引き返せそうにないので断念。 凹みへ戻る。 西側下の曲輪へ。 二の郭の切岸。 堀切が見えてきた。 武者走りとも。 写真ではさっぱり解りませんが、現地で見れば堀が西から北まで続いているのが解かります。 後は下りて行くだけ。 西側の登城口。 付近の墓地が段々になっていて曲輪に見えた。 この辺りは屋敷地だったのかな。 北へ下りて行く道の脇の窪地は堀跡に見えた。 田内城の北にある墓地から北側の大きな曲輪へ行けるかどうか行ってみる。 土塁のようなものが見られましたが、北側の大きな曲輪へはよじ登らないと行けないので断念。 田内城の北端を見上げる。 先端が削られている。 本当はこの辺りにも登城道があったのかも。 田内城を後にする。 田内城の西に山名寺がある。 山門。 境内の様子。 花かつみ由来。 説明板によると、当初は光孝寺という名前だったらしい。 本堂西側を登って行くと三名寺古墳と山名時氏の墓がある。 三明寺古墳。 説明板。 守護大名山名氏初期の本拠地、田内城でした。 |
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