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場所 京都市上京区丸太町通河原町東入ル駒之町561-1 山本八重が一時勤務していた女学校です。 詳しい地図で見る この立派な建物は電話局だったと云う。 【旧京都中央電話局上分局】 この建物は、大正13年(1924)に営業を開始した京都中央電話局上分局の庁舎として、逓信省技師吉田鉄郎の設計、清水組の施工により、大正12年に建築されたものである。 上分局は昭和34年に廃局されたが、この後も建物は他の用途に活用され、さらに昭和57年には構造補強が行われて保存されてきた。 設計者の吉田鉄郎は、山田守と共に逓信省の双璧と称せられ、後の東京・大阪両中央郵便局をはじめ優れた作品を多く手がけてきた。 当建築はそうした彼の前半生を代表する作品であり、特異な外観とドイツ民家風のディテールに特色をもつ。 現在、内部は当初の形態がかなり失われているものの、外観は往時の姿をよく残しており、昭和59年6月1日、京都市登録有形文化財に登録された。 京都市 この電話局が建つはるか前、ここに女紅場がありました。 ビルの北東隅に碑が建っています。 碑は昭和7年10月に、 母校創立60周年を記念して京都鴨沂会により建てられました。 側面の簡単な説明。 女紅場は京都府立京都第一高等女学校創立当初の名称にして、明治5年4月14日舊九條家河原殿に開設せる者なり。 女紅場とは、読み書き算盤や裁縫・手芸を教えた女子教育機関。 明治5年(1872)4月、旧九條家別邸に日本で最初の女学校として「新英学級及女紅場」が設立された。 明治33年(1900)8月、京都御所寺町御門近くに移転。 明治37年(1904)4月、京都府立京都第一高等女学校と改称。 昭和23年(1948)4月、京都府立鴨沂高等学校となり現在に至る。 鴨沂高等学校には、旧九條家の正門が移築されている。 (校内には茶室も移築現存するとか。) 戊辰戦争後に兄山本覚馬を頼って上洛した山本八重は、明治5年に兄の推挙で女紅場に勤務。 権舎長・教導試補となり、礼法や養蚕を教えたと云う。 |
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