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所在地 愛知県豊川市一宮町西垣内2 主祭神 大己貴命 創建 伝大宝年間(701-704) 【里宮の歴史】 「但馬続風土記」によれば、神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて 但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれたとあり、社伝にはその後命は「本茂山(もとしげやま)」(本宮山)に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。 そして、里宮に大神が鎮まるに至った経緯を、本社縁起中最古の資料「三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起」(明応9九年)は次の様に伝えている。 文武天皇の大宝年間に天皇の病を鎮める為、草鹿砥公宣卿が勅使として「煙厳山」に使わされた。 公宣卿は三河の山中において道に迷うが、この時出現した老翁の導きにより無事祈願を果たし、天皇の病も平癒された。 天皇はこの老翁に礼を尽くすため、再度この地に勅使を使わされた。 公宣卿は三河の山中において道に迷うが、この時出現した老翁の導きにより無事祈願を果たし、天皇の病も平癒された。 天皇はこの老翁に礼を尽くすため、再度この地に勅使を使わされた。 公宣卿は再び三河国本茂山に入って老翁と面会し、その望みにより山麓に宮居を定めることとなった。 その時老翁は衣の袖を抜き取り、宝川の清流に投じたが、公宣卿はこれを追って山を下り、山麓辰巳の方の岸辺に留まった袖を取り上げて、七重の棚を作り七重の注連縄を引廻らして斎き祀ったのである。 古くから朝廷の崇敬篤く、文徳天皇嘉祥3年に従五位下とあり、順次神階を進め、貞観18年には従四位上に至った。 こうして平安時代には、「延喜式内社」に列せられ、次いで三河国の国司が国内神社に巡拝奉幣する筆頭神社「一之宮」となったのである。 その後江戸時代に入っても周辺藩主の信奉篤く、文政10年に正一位が授けられ、また明治4年には国幣小社筆頭に列せられた。 (パンフレットより) JR豊橋駅から飯田線に乗って行きます。 最寄駅の三河一宮駅までは本数が少ないので事前に時刻表でチェック要です。 駅から東へ約500mの所に砥鹿神社があります。 付近の町名は「一宮大ブロ」。 大きな浴場があったのでしょうか? 約5分で国道151号線に到達。 渡って真っ直ぐ進めば参道正面ですが、左折。 国道151号線に面して西大鳥居。 境内図。 まずは、参道脇にある説明版を読む。 絵図を拡大。 参道の北側、駐車場の奥に護国神社。 西参道に戻って、今度は駐車場入り口から南へ。 土塁? 境内南側。 末社荒羽々気神社。 大己貴命荒魂を祀る。 隣に末社八束穂神社。 天穂日命(素盞鳴命の御子)を祀る。 西参道に戻って直進。 境内を横断する道を気をつけて渡る。 渡った所に由緒書。 西二の鳥居。 西参道を進む。 左手に弓道場。 弓道場を覗いてみる。 弓道場の反対側に手水舎。 西神門。 西神門から境内を見る。 西神門を入って北側。 左手…末社守見殿神社。 大己貴命和魂・迦久神(鹿の神)・倉稲魂命(食物の神)を祀る。 右手…本宮山奥宮・里宮諸末社遥拝所。 隣の奥に神庫。 その隣に摂社三河えびす社。 奥に二宮社(事代主命を祀る)、三宮社(建御名方命を祀る)がある。 三河えびす社とその東側の本殿との間。 左側に古札納所。 右側に末社八幡宮。 誉田別命と天児屋根命を祀る。 そして、本社拝殿。 扁額。 脇に年末まで1年間飾られる干支の絵馬。 奥に本殿。 境内の東側へ。 さざれ石。 奥に「みたらいのケヤキ」。 境内の東側は崖になっていて、 崖の中腹から生えている。 祓所。 西神門を見る。 近づいてみる。 本社拝殿と三河えびす社。 境内南側に社務所。 工事中だったので、東側から見る。 社務所で売られていた面絵馬。 社務所の東側に手水舎。 子供の成長を記録できる身長計。 奥に太鼓楼。 表神門。 表神門から境内を見渡す。 表神門から出る。 表神門前の鳥居。 境内の南側を駅のほうへ沿って歩くと参集殿があります。 最後にご朱印。 日を改めて奥宮へ向かいました。 (奥宮へ) (おまけ) 境内から約1km北東に境外末社がある。 鳥居。 参道脇にある末社饌川水神社。 罔象女神(水の神) 参道奥に末社津守神社。 田裳見宿禰(津守氏の始祖)を祀る。 観音橋を西に登った辺りです。 |
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