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登城日 2013年11月 6日(水)晴 難易度 ☆ 場所 神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目 寒川神社大門踏切を渡った所。 国鉄相模線寒川支線廃線跡。 今日は廃線探訪はせずにそのまま南下。 一之宮小入口交差点を左折。 ここに梶原景時の館(一宮館)があったと云う。 説明板。 【梶原景時館跡】 梶原景時は治承4年(1180年)8月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救った。 翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献した。 その後、一之宮庄を所領し、この地に館を構えた。 図に示すとおり館の規模は広大で、現在も当時の堀のなごりを留めている。 天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したものと思われる。 景時は和歌もたしなみ文武両道に秀でた武将であった。 頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199年)11月、鎌倉を去り、一族郎党を率いて一之宮の館に引き揚げた。 その後、景時は再起を期し、上洛するため翌正治2年(1200)正月20日午前2時頃ひそかに館を出発した。 一行は駿河(清水市郊外)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最期を遂げた。 館の留守居役の家臣も翌年尾張(犬山市)に引き揚げたと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創建したともいわれている。 平成21年3月 寒川町教育委員会 案内図。 館址碑。 館址碑裏の水路は内堀跡。 梶の木。 角落とし。 館址と関係ない。 参道を進む。 物見台跡に建てられた天満宮。 天満宮の西側。 天満宮は高台に建っているのが解る。 道路を挟んで反対側にある一之宮小学校。 小学校前の公園は城ノ下緑地。 道路の東側へ戻る。 この辺りは馬場伝承地。 細い路地を東へ進む。 両替丁子育地蔵尊を過ぎる。 少し広い道路に出た所に花川用水。 花川用水説明板。 1階に「梶原景時と一宮館」コーナーがある。 立ち寄るべし! 写された一宮館。 鎌倉党分布図。 名馬するすみ。 梶原景時終焉の地碑。 何処にあるか尋ねたところ、静岡市清水区の梶原山にあるという。 寒川町南部文化福祉会館の北側に松戸橋と寒川町南部教育発祥の地碑。 この場所に一之宮小学校があったらしい。 旧大山街道(中原街道)を西へ。 少し行った所に「梶原伝七士の墓」がある。 濱降祭駐輿記。 奥へ進む。 溝は内堀跡らしい。 梶原伝七士の墓。 説明板。 梶原源太景季(かげすえ)は景時の長男で、勇猛果敢歌道にも秀でた弓取である。 寿永3年(1184)正月、宇治川の合戦で佐々木高綱との先陣争いで愛馬「磨墨」共に武名をあげる。 同年3月、生田の森・一ノ谷の合戦では、折りしも咲き誇る梅が枝を箙に挿し かかれば花は散りけれど 匂いは袖にぞ残るらん と戦陣を馳せる景季公の風雅を平家物語など諸本が伝え、今日でも能や歌舞伎で「箙の梅」が演じられている。 8月、一之宮八幡大神例祭の宵宮の屋台巡行に加わる「西町」の屋台は館址にふさわしく、梶原氏に因む彫刻で飾られ、碑の景季公は一部を模写したものである。 平成20年5月 梶原公顕彰会20周年記念事業 箙の梅レリーフ。 梶原伝七士の墓から見た梶原景時館址。 熟した柿。 梶原伝七士の墓を後にする。 旧大山街道を少し西へ進むと薬師堂。 ここにも説明板があります。 【梶原景時と一之宮館址】 梶原景時(生年不明〜1200)は「鎌倉本體(ほんたい)の武士」といわれ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の基礎を築いた文武ともに優れた武士です。 梶原氏は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉党の一族とされ、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいました。 治承4年(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、8月24日、石橋山(小田原市)の合戦で大敗して椙山に逃れ、「鵐(しとど)の岩屋」(湯河原町・真鶴町の両説あり)に潜んでいました。 大庭影親率いる平家方の一員として参戦していた梶原景時は、頼朝を発見したものの討たずに救いました。 これが景時と頼朝の出会いでした。 翌年1月景時は、関東を平定し鎌倉に入った頼朝に土肥実平の仲介により面謁(めんえつ)し、「言語を巧みにする」と高く評価され、家臣として認知されました。 以来、源平合戦で多くの功績をあげたほか、頼朝の片腕として侍所所司をなじめさまざまな重職に携わりました。 頼朝の死後、正治元年(1199)10月、結城朝光謀判の疑いを将軍頼朝に讒言したとの理由で後家人66名の連署をもって弾劾され、 、弁明の機も得られるまま一宮に下向。 再度鎌倉に戻るものの、 12月鎌倉追放が正式に決まり、鎌倉の館は取り壊されました。 正治2年1月20日、景時とその一族は、朝廷や西国武士団の支援を軸に甲斐源氏の武田有義を将軍に擁立し再起を図ろうと、一宮館をあとに京都に向け出立します。 その途中、駿河国狐ケ崎(静岡県清水市)で在地の武士吉川小次郎らに迎え討たれ、交戦の末、梶原山にて最後を遂げました。 幕府内の主導権を手中にしたい北条氏と、頼朝の側近として職務に忠実過ぎた景時を快く思わなかった御家人たちとの思惑が一致したことが背景にあったと言われています。 旧大山街道を挟んで北側の住宅街を進んだ所の空き地。
土塁跡? 土塁跡と堀跡? 旧大山街道へ戻り、さらに西へ進むと天満宮へ戻る。 従是一之宮明神道の碑。 ここが寒川神社表参道の起点? と、思ったら文政9年(1826)に土地改良で現在地に移されたものだそうです。 土塁伝承地に沿って北へ進む。 割烹ひふみホテルは土塁上に建っているように見える。 外堀伝承地に沿って東へ。 外堀跡らしきもは見当たりませんでした。 館の東北隅辺りかな? ここから花川用水に沿って南下。 旧大山街道との交差点。 松戸橋の所へ戻って来ました。 梶原景時館を後にする。 旧大山街道を東へ。 一之宮八幡宮。 由緒書。 景観寺。 ここから北上しJR寒川駅から帰る。 梶原景時の本拠地、一宮館でした。 |
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