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場所 静岡市清水区・葵区 瀬名館跡でご紹介した光鏡院。 山門脇に梶原一族いくさの跡案内板があります。 梶原一族について 治承4年(1180)、源頼朝は、平家討伐の旗あげをしたが、相模(神奈川県)の石橋山で敗れ、洞穴に隠れていた。 そこを平家方の将で、大庭景親に従っていた梶原景時が密かに助けた話しは有名である。 景時は、その後、頼朝に仕え平家追討や鎌倉幕府の創立に功をたてたが、頼朝没後の勢力争いに敗れた。 正治2年(1200)一族と共に西国の所領に向かう途中、駿河国、清見ヶ関から大内(清水区)あたりで鎌倉の命を受けたこの地の国侍の待ち伏せに遭い、戦いとなったが利あらず、梶原山に逃れ、一族共に自害して果てた。 梶原山の山頂には、梶原親子を供養した塚があり、地元では梶原塚という名でも親しまれている。 梶原景時 辞世 もののふの 覚悟もかかる 時にこそ こころの知らぬ 名のみ惜しけれ 案内図を拡大。 鎌倉を逃れ、夜間、清見ヶ関を通りかかった梶原勢は、この地に住む入江一族をはじめとする侍たちと戦いとなる。 2.庵原 当時は一面芦原の湿地帯の中であったので、月明かりをたよりに、両軍見えかくれながらの戦いとなる。 庵原は東京の日本橋から169kmでした。 戦場はしだいに高橋、大内と西へ西への移動していく。 3・大内 ここで、梶原勢は、吉川小次郎を主力とする地侍と激突。 景時の三男、景茂と小次郎が一騎打ちとなり秘術をつくして戦い、力つきて景茂が討たれた。 また、負傷した小次郎も間もなく亡くなっている。 4.矢射タム橋 景時は西へ逃げ、瀬名川にさしかかった時、橋のたもとに待ち構えていた地侍が、いっせいに矢を射かけたので、「矢射タム橋」と言われるようになった。 説明板を拡大。 葵区曲金1丁目の旧東海道。 ここにある曲金観音。 この辺りは狐ヶ崎と称し、梶原景時一族と地元武士団との古戦場だったと云う。 少し東へ行った所にある軍神社。 日本武尊が東征の際、此の地で戦勝祈願をしたと云う。 軍神社の東にある馬頭観音。 梶原景時の愛馬「磨墨」をはじめ、一族郎党の愛馬を供養するために建てられた。 川合あたりまで進んだ景時は、更に行く手を地侍に阻まれ、「矢射タム橋」を逆戻りし、矢崎あたりで最後の死力をつくして戦ったがかなわず梶原山に逃れた。 6・梶原山。 もはやこれまでとみた景時親子は、湧き水で鬢(びん)をなおして、山頂で自害して果てた。 梶原山へは、光鏡院の脇から登ると良い。 鬢水。 この地で身なりを整え、自刃の地である山頂を目指したと云う。 説明板。 頂上へ。 【馬上後ろ向きに自刃の山へ登る】 梶原景時たちは、戦いつづけて大内、鳥坂と過ぎ、さらに狐ヶ崎(静岡市曲金附近)に進んだが、すでに後につづく味方の姿は無く、今来た道を引き返してきた。 この”夕日無し山”(大内側から見た梶原山の名)へは、馬の足跡をくらますために、馬を後向きにして登ったという話が伝えられている。 静岡市曲金には「合戦川」、瀬名川には「矢射たむ橋」の名が残る。 梶原山の伝承(3) 梶原会 梶原山頂上。 梶原景時終焉の地碑と供養塔。 碑裏側の説明。 静岡市街と駿河湾が一望。 富士山もきれいに見えました。 梶原山の奥にある一本松公園の桜がきれいとの情報あり、向かう。 途中に梶原親子供養塚の木碑。 約10分で一本松公園が見えてきました。 入り口に冠木門。 一本松公園の桜。 きれい? 咲き始めでした。 一本松公園から静岡市街を見る。 手前の山が梶原山。 夜景スポットだそうです。 下山。 途中に霊山寺。 鐘楼。 仁王門は国の重要文化財。 説明板。 下りる。 仁王の力石。 この仁王様の足跡を踏むと疲れがとれるとか。 参道を下りる。 参道入り口。 熊出没注意 御朱印所。 御朱印。 山麓から見た霊山寺。 西へ進むと梶原堂。 梶原堂の様子。 説明板。 脇には梶原景時、景季、景高の墓。 梶原堂を後にする。 清水区高橋にある高源寺。 駐車場前の説明板。 説明板の下部に案内図。 山門。 境内の様子。 かじのき。 梶原景時一族供養碑。 説明板。 ウナリ地蔵。 本堂。 説明板。 本堂は久能寺から移築されたものと云う。 富士の巻狩りの召集状。 本物。 梶原景時像。 最後に御朱印。 以上、梶原景時いくさの跡でした。 (おまけ) 清水区長崎にある長崎神社。
境内にある天神社。 梶原山から景時が投げ飛ばした馬具の内、轡を祀っていると云う。 鞍は瀬名の登鞍明神(現、利倉神社)に、鎧は鳥坂の浅間社・天王社に祀られたと云う。 草薙神社の記事でご紹介した首塚稲荷神社。 梶原景時の名馬「磨墨」の首が飛んで落ちた所と云う。 |
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