|
場所 京都府宇治市宇治 宇治川の中州の橘島。 ここに宇治川先陣の碑が建っています。 【宇治川先陣の碑】 古代より水陸交通の要衝であった宇治は、幾多の合戦の舞台となり、なかでも、寿永3年(1184)の木曽義仲と朝廷から義仲追討の任を受けた源義経の戦いは有名です。 天下の激流を挟んだ両軍の決戦は、義経軍の名馬「するすみ」に乗った梶原景季と名馬「いけづき」に乗った佐々木高綱の「先陣争い」で幕を切って落としました。 先陣は策にたけた高綱がとり、義経軍は一斉に渡河して義仲軍を打ち破りました。 この碑は、その故事に因んで、昭和6年(1931)に建立されたものです。 ちょうど河川整備工事中で、良く見れなかった。 そのかわり、パネルが展示されていました。 工事概要。 もののふの八十氏河の網代木に いざよふ波の行く方しらずも 説明板。 対岸(源義仲側)から見る。 実際に梶原景季と佐々木高綱が先陣を争って渡った場所はここでは無く、宇治橋の西側にあった中州だったそうです。 宇治橋へ。 説明板。 【宇治橋】 1300年以上もむかし、大化2年(646)に初めて架けられたと伝えられる、わが国最古級の橋です。 その長い歴史のなかで、洪水や地震などの被害はもちろん、戦乱に巻き込まれたことも数えきれません。しかし、橋はそのつど架けなおされてきました。 ここ宇治が、交通上重要な場所でありつづけたことのあらわれでしょう。 またこの橋は、古今和歌集や源氏物語をはじめとする文学作品、絵画や工芸品といった美術作品に描かれるなど、古くから景勝の地・宇治の象徴として親しまれてきました。 現在の橋は、長さ155.4m、幅25m。 平成8年3月に架け替えられたもので、木製の高欄に擬宝珠がわしらわれるなど、この橋の豊かな歴史と文化にふさわしいデザインがほどこされました。 これからも、宇治の名所のひとつとして優雅な姿を川面にうつしていくことでしょう。 橋なかほどに張り出した「三の間」は、豊臣秀吉が茶の湯の水を汲ませた場所と伝えられ、毎年10月に行われる宇治茶まつりでは今もここから水が汲まれます。 この広場には、昭和の宇治橋の「三の間」を利用してテラスを設けました。 川と橋、そして周囲の山々が織りなす宇治の風光を、心ゆくまでお楽しみください。 宇治橋がはじめて架けられたことを記念した石碑が宇治橋東側の橘寺放生院にある。 説明板。 国の重要文化財である宇治橋断碑は見れませんでした。 (見学可能なのは3月1日から11月30日までの境内が開いている時間です。) 宇治川の戦いの際、なぜ宇治橋を渡らなかったのかな。 治承4年(1180)の橘合戦図を見るとすでに部分的に壊れているので渡れなかったのだろう。 宇治橋から「宇治川先陣の碑」が建っている橘島と塔の島を見る。 宇治橋から下流を見る。 今は中州が無くなってしまった(「中州の復元」には昭和時代まで中州が写っています。)が、この辺りを梶原景季と佐々木高綱が先陣を争うようにして渡ったらしい。 義経軍に宇治川を突破され京へ攻め込まれた源義仲は瀬田へ退却し最期を迎えることになるのです。 (おまけ) 宇治橋東詰の通圓茶屋。 説明板。 【「通圓」通圓茶屋について】 通圓茶屋は吉川英治の有名な小説「宮本武蔵」にも出てまいりますが、創業は平安時代末の永暦元年(1160)にさかのぼります。 元祖は源頼政の家臣で、古川右内という武士で武術に優れておりました。 晩年隠居をして頼政の政の一字を賜って太敬庵通圓政久と名乗り、宇治橋東詰に庵を結びました。 のちに治承の役(1180)が起きたときは主君頼政のもとにはせ参じ、ともに平家の軍と戦って討ち死にを遂げています。 この主従の関係を物語った「通圓」という狂言があり、たびたび上演されております。 その後子孫代々、通圓の姓を名乗って宇治橋の橋守(守護職)を仰せつかり、道往く人々に橋の長久祈願と旅人の無病息災を願って、お茶を差し上げてまいりました。 通圓第7代は一休和尚と親交厚く、参禅して隠者となり、おたがいにとんちでもって肝胆相照らす仲だったようです。 康正元年(1455)に卒していますが、このとき一休はわざわざ通圓の家に来て、「一服一銭一期の泡」としたためた書を贈っています。 第8代通圓は将軍足利義政の同朋衆・茶坊主として将軍に仕えておりました。 また宇治橋の守護職だった橋守10代、11代通圓は、豊臣秀吉の信任をうけて宇治川の水を汲み上げる大役を仰せつかっていました。 茶事に関心の深かった秀吉は、伏見城におられた時、城中で大名、茶人を招いてしばしば茶会を催しました。 その時に用いる茶の湯の水は、当時天下の名水といわれた宇治川三ノ間の水でした。 秀吉は、千利休に命じてわざわざ釣瓶を作らせ、通園は夜明け前に汲み上げ、伏見城で秀吉は茶を楽しみました。 当時の釣瓶は通圓の代々に受け継がれ今日まで保存されています。 現在の建物は、寛文12年(1672)に建てられた江戸時代の町屋の遺構を残す貴重な文化財と京都府より認められた建物です。 正面から見ますと深い前庇と、間口が広いわりに柱を少なくした不思議な感じを与える建物となっています。 これは昔から賑やかな往来の人々が、出入りしやすいように考えたためで、太い梁を使ってはね木を押さえている江戸時代初期の古風な建築方であります。 店の間には数百年を経た茶壺がならび、一休和尚より賜りました「初代通圓」の木像が正面に祀られております。 足利義政・豊臣秀吉・徳川家康を始め、諸大名も、この茶屋でお茶など召し上がって行かれたことが記録に残っております。 京や大和路を往き来した昔の人々が、出入りしたであろう面影が偲ばれてまいります。 入ってみたかったが…
日没間近。 夕日に輝くもう一つの説明板。 宇治らしい電話ボックス。 京阪宇治駅から京阪電車に乗って帰りました。 入ってみたかったなぁ… |
全体表示
[ リスト ]






