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膳所城跡公園からJR石山駅の間はかつて粟津ヶ原と呼ばれ、松原が広がっていました。 詳しい地図で見る 松原は粟津の晴嵐と言われ、近江八景の一つに数えらる風光明媚な所でした。 (晴嵐とは、晴れた日に松の木の葉がこすれておこる音が嵐のように聞こえることを言うそうです。) 歌川広重の粟津の晴嵐。 (転載不可) 現在の様子。 松がまばらになってしまいました。 この地は、木曽義仲が源頼朝軍と最後の一戦を交え、討ち死にした場所です。 【粟津の戦い】 粟津の戦い(あわづのたたかい)は、寿永3年(1184)1月21日に近江国粟津にて行われた源義仲と源頼朝派遣の東国諸将との間の戦い。 法住寺合戦後、源頼朝は後白河法皇の命を受けて弟の範頼・義経以下、傘下の東国諸将に義仲討伐を命じた。 宇治川の戦いなどで敗れた義仲は後白河法皇を連行して京都を脱出しようと図るが、六条河原の戦いで再度敗れて、今井兼平らわずかの兵を連れて根拠地のある北陸への逃走を試みた。 ところが近江国粟津に着いたところ、長年信濃国の支配を巡る争いで因縁があった一条忠頼率いる甲斐源氏軍と遭遇、最早戦力として成り立たなくなっていた義仲軍は潰滅し、辛うじて逃げ切った義仲に従うのは兼平のみであった。 そこで義仲は覚悟して自害の場所を求めて粟津の松原に踏み込んだところ、馬の脚が深田に取られて動けなくなり、そこを顔面に矢を射られて討ち死にし、これを見た兼平も自害して、木曾源氏勢力は崩壊した。 なお、義仲を討った人物については諸説あり、『平家物語』『吾妻鏡』は三浦氏庶流の石田為久、『愚管抄』は義経配下の伊勢義盛と伝えている。 (wikipediaより)戦死した場所は、今井兼平の墓がある場所と言われています。 説明板。 お墓への入り口。 また説明板。 今井兼平の墓。 粟津原合戦碑。 墓石に彫った碑文が風化したので、横に彫りなおした石碑を建てました。 裏にその説明。 木曽義仲の墓は膳所城跡から旧東海道をさらに大津方面へ歩くこと約10分のところにある義仲寺にあります。 詳しい地図で見る 何と有料です。 説明板。 もっと詳細な説明。 木曽義仲。 (転載不可) 木曽義仲の墓。 巴御前の墓。 説明板。 義仲寺は、木曾義仲の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。 山吹御前の墓もあったそうですが、見落としました。 (おまけ) 木曽義仲の墓の隣りに、何と松尾芭蕉の墓があります。
松尾芭蕉。 (転載不可) 松尾芭蕉は元禄元年(1694)10月12日午後4時頃、大坂の旅舎で亡くなった。 生前からこの義仲寺を好んで訪れていた芭蕉は、この地に埋葬するよう遺言したという。 超判官贔屓だったのでしょうか? 意外でした。 |
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義仲寺は昔、家族旅行で行った事があります。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」ですね。再訪してみたいです!
WP行きますね!
2009/9/6(日) 午後 5:35
あーここ行こうと思いながら、すっかり失念してましたよ。
ブログで見れて感謝感謝。
丁寧な記事 見習わなくては。^^;
2009/9/6(日) 午後 10:31 [ mat**u_p*pa ]
Shaneさん
こんばんは
俳句勉強になりました!
誤解するところでした。
2009/9/6(日) 午後 11:48
マッツゥさん
ゆっくり歩くと、見えてくるものがあります。
ゆっくり歩くと、時間切れと、体力消耗で見切れないことがあります。
一長一短ですね。
2009/9/6(日) 午後 11:51
芭蕉って義仲ファンだったのですね。
討ち取った義経をどう思っていたのか気になります。
でも拝観料取るのですね。京都に近いからかな。
義仲の死を知った時巴御前は共に戦場にいなかった事を
後悔したでしょうね。
でも義仲に落ち延びるように言われてはねぇ…
TB返しをお願いします。
2011/10/30(日) 午前 9:57
るなさん
TB有難うございます。
2011/10/30(日) 午後 10:18