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登城日 2009年 9月22日(火)曇 難易度 ☆ 場所 福島県南会津郡南会津町田島 本日最後の訪城。 一日6城も廻って、その中に山城を2城も含むのは、過去最高記録では。 どうかしてしまいました。 久川城へ向かっていたのですが、日没寸前だったので、鴫山城へ向かいました。 鴫山城の最寄駅は、会津鉄道会津田島駅です。 詳しい地図で見る 鴫山城は、駅から南に見える愛宕山にありました。 かつての様子。 鴫山城の説明板。 【鴫山城の歴史】 鴫山城の築城年代は不明であるが、『塔寺八幡宮長帳』には、長禄4年(1459)に山内越中と白川氏が「南山しき山の城」を攻め落としたことが記載されており、この頃にはすでに存在していたことは確実である。 鴫山城一帯(「南山」と称されている)は、長沼氏が支配しており、鴫山城を築城したのも長沼氏と推定できる。 永正18年(1521)長沼氏は黒川城主・蘆名氏と戦い、鴫山城を落とされたという。 その後も長沼氏は蘆名氏と戦い、一時は南山を取り返すなど勢力を巻き返したが、16世紀半ばには蘆名氏に臣従することとなった。 天正17年(1589)の摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると、鴫山城主・長沼盛秀は伊達政宗に臣従し、伊達勢とともに河原田盛次が守る久川城を攻撃している。 天正18年(1590)の奥州仕置によって長沼氏は伊達氏に従って南山を去り、鴫山城には蒲生氏郷家臣・小倉孫作が6,300石で入城する。 その後、上杉氏時代は直江兼続(上杉景勝の執政)の弟・大国実頼が城代となり、関ヶ原の戦い後に蒲生秀行が会津領主となると、再び小倉孫作が城代となった。 その後、寛永4年(1627)に加藤嘉明が会津領主となった際に廃城となった。 (wikipediaより)山麓部分の案内図。 ここも『天地人』ブームの舞台なんですね。 大国実頼(小泉孝太郎)の居城だったという。 両側には侍屋敷が並んでいた。 屋敷跡は、段々になっています。 また説明板。 大門跡。 説明板。 両側は空堀がある。 説明板。 入って左側は御平庭。 説明板。 井戸がある。 今度は右側へ行ってみる。 門より高い曲輪となっている。 下千畳。 説明板。 その上は上千畳。 説明板。 土塁に囲まれた曲輪がありました。 西側にあった土門跡。 説明板。 横には矢倉台があるらしいが、草茫々で解らなかった。 説明板。 土門跡から見下ろす。 空堀がある。 下千畳へ行ける。 土門跡を見上げる。 西の外壁塁を超えると、西宮神社へ行けるらしいが、ここで上千畳へ戻る。 今度は東へ行ってみる。 御平庭の奥から大門跡を見下ろす。 おさらいの説明板。 嗽清水。 東へ進むと御花畑。 説明板。 東の外壁塁。 説明板。 さて、ここで山麓部分は大体見ました。 日没寸前だし、普通は帰るのですが、行ってしまった… 急ぎ足でどんどん登る。 御茶屋場。 詰の城の大手口。 説明板。 主水曲輪。 説明板。 しまった! 野面積みの石垣があったんか… 薄暗くて見えなかった。 無念です。 馬返し岩。 ちょっと石垣があった。 愛宕神社に到着! 説明板。 城下を見下ろす。 まだ明るかったんだ。 詰の城の山頂部分の石垣は本物かな? 搦手へは下りれない。 急いで下山。 急速に辺りは暗くなっていく。 下山途中にこれから登る人とすれ違った。 時刻は17時をまわっている。 大丈夫かな? 何か出てもおかしく無い雰囲気だし… ようやく、御平庭まで戻ってきた。 ホッとしたのもつかの間。 大門を抜けた時、凄い視線を感じる。 いる!柵の間に小さく見えるのが鹿。 近づいてもう一枚撮ったつもりが、帰ったらブレていた。 七尾城で懲りて、相当ビビっていたようだ。 奈良若草山の鹿みたいにかわいかったらいいのですが、この鹿は全く逃げない。 怖かったです。 駅の観光案内所で聞いてみると、熊は滅多に出ないが、夕方は危ないので登らない方がいいとのこと。 気をつけて下さい。 |
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人になれてない動物は怖いですよね〜〜
まじに、びびっちゃいますよね><
ここの大門、周りに石垣がない分、浮いちゃって見えますよね〜
門前の掘りも見事ですよね〜〜
2009/10/23(金) 午前 1:10
おしょうさん
確かに大門だけ櫓台みたいにしっかりとした石垣が残り、あと何も無い。
不思議ですね。
他には何もないと思って今まで行かなかったのですが、意外と見所がありました。
2009/10/23(金) 午前 6:14