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場所 神奈川県鎌倉市十二所 JR鎌倉駅または京急金沢八景駅から京急バスに乗り、泉水橋バス停下車。 バス停から少し北東へ歩き、明石橋の交差点前の道を左に入って行く。 真っ直ぐ進むと五大堂明王院ですが、途中で左折し鎌倉グリーンテニスクラブを目指す。 物置に隠れてしまって見難いが、入口にやぐら。 この辺りに梶原景時の屋敷があったと云う。 その先に鮫?のオブジェ。 酔鯨館という個人美術館。 入館料500円。 向いに梶原井戸。 井戸の脇に祠。 五輪塔もあるが、その先は行き止まり。 梶原景時邸跡を後にする。 比企能員や畠山重忠の邸跡には碑が建っているのに… ここじゃないのかな? (おまけ) 二又へ戻る。 五大堂明王院へ向かう。 所在地 神奈川県鎌倉市十二所32 山号 飯盛山 宗派 真言宗御室派 本尊 五大明王 創建 (寛喜3年(1231) 開基 藤原(九条)頼経 寺標の裏に、肩肘ついた石仏と「源頼朝※四代将軍源頼経※建立地」と書かれた石碑。 冠木門。 説明板。 【明王院】 鎌倉幕府の四代将軍藤原頼経が、将軍の祈願所として建立した。 幕府の鬼門の方角にあたるため、鬼門除け祈願所として本尊の五大明王が大きなお堂にそれぞれ祀られていたことから、古くから五大堂と呼ばれていました。 五大明王とは不動明王、降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王で、鎌倉市内で祀られているのは明王院だけです。 毎年28日には護摩法要が行われ、この時だけは誰でも本堂に入ることができます。 境内の参道。 参道を進む。 燈籠。 本堂。 国指定重要文化財である木造不動明王坐像を安置。 本堂の東側。 十一面観音を安置。 鎌倉三十三観音霊場第8番。 その奥。 一願水掛不動尊。 戻る。 本堂側面。 大きな石。 かつては庭石だったりして。 本堂の西側にも茅葺き屋根の建物。 正面から見る。 寺務所へ。 ここで御朱印をいただく。 倶利伽羅守。 腕輪守。 寺務所前のしだれ梅。 だいぶ散ってしまった。 戻る。 仏さま。 再び本堂。 最後に御朱印。 冠木門から出る。 東へ行くと大慈寺跡。 跡地に碑が建つ。 【大慈寺跡】 大慈寺は建暦2年(1212)、源実朝の創建にかかり、新御堂と号す。 建保2年(1214)7月27日大供養を行われ、尼御台政子及び将軍実朝、大に儀衛を張り之に臨めり。 後、正嘉元年(1257)征夷大将軍宗尊親王の時、本堂、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重の塔、鐘楼等悉く修理を加えられ、荘厳の美殆んど古跡に軼きたりと、東鑑に見えたり。 当時の盛観以って想うべし。 爾来星霜700年、布金の地また一片の礎石をも止めず、桑滄の変嘆ずべき哉。 昭和3年3月建之 鎌倉町青年団 さらに東にあるイエズス会。
大慈寺は広大な境内だったと云う。 滑川の南側には大江広元の屋敷があった。 |
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登城日 2013年12月29日(日)晴 難易度 ☆ 場所 静岡市清水区吉川 新静岡駅から静鉄に乗り狐ヶ崎駅下車。
まずは、駅の北側にある吉川八幡神社へ向かう。 駅名の狐ヶ崎は、鎌倉御家人の吉香友兼が梶原景時の三男景茂を討ち取った所と云う。 狐ヶ崎は駿河区曲金の説もある。 討ち取った際に使われたと云う刀は「狐ヶ崎」と名付けられ、吉川氏の家宝として代々受け継がれ、現在は山口県岩国市の吉川史料館に保管。 国宝に指定されている。 駅前通りを進む。 駅の南側に道は旧東海道。 説明板。 渡った所に上原堤「宗旦池」。 説明板。 CMソングは北原白秋が作詞した「ちゃっきり節」。 説明板。 静鉄と東海道本線に架かる谷津沢川水路橋を渡る。 歩道の下に川が流れている珍しい橋。 説明板。 谷津沢川水路橋から吉川八幡神社を見る。 東海道本線敷設の為、境内の2/3を失っている。 吉川八幡神社の境内。 由緒書。 吉川氏館の北西に祀ってあったものを現在地に遷したものと云う。 参勤交代の際、岩国藩主吉川氏は必ず参詣していた。 脇の上屋。 上屋に横たわっている旧鳥居。 寛政元年(1789)周防国岩国藩主吉川経倫が奉納したもの。 柱には吉川氏と梶原氏との戦いや承久の乱の功績、村民への感謝、神のご加護への熱い思いが彫られている。 説明板。 拝殿へ。 拝殿。 拝殿内に注目! 東京馬込萬福寺所蔵、駿河国吉川村絵図。 安養寺の南にある瀧五左ヱ門の屋敷が吉川氏館っぽい。 福寿院は、静岡県警清水分庁舎の西にある福聚院のことではないだろうか? 吉川八幡神社の北、新幹線の高架の南に土塁っぽいものが見える。 ここが吉川氏館っぽい。 吉川八幡神社の故地には古宮が残る。 吉川氏館へ向かう。 吉川八幡神社から北へ進む。 瀧五左ヱ門の屋敷はこの辺りかな? この水路は堀跡かな? 個人的にはこの辺りに吉川氏館があったと思います。 吉川八幡神社にあった吉川氏館へ向かう。 国道1号線の北側に位置する小糸製作所静岡工場。 この辺りの地名は吉川。 小糸製作所の西辺を進むと吉川氏墳墓があります。 吉川氏墳墓。 説明板。 【吉川氏発祥の旧跡碑】 清水市吉川を中心とする一帯の地方は旧岩国藩主吉川氏の初代経義より友兼朝経経光経高に至る五代128年間の旧跡地である 昭和33年6月 岩国市史編纂所長 文学博士 瀬川秀雄誌 吉川氏墳墓の西にある若宮八幡宮。 吉川氏の守護神。 吉川氏墳墓の北にある小さな橋。 安養寺橋と書いてある。 この辺りに吉川氏の菩提寺だった安養寺があったようだ。 安養寺の境内に巴川が流入してしまったらしい。 東へ進むと能島八幡宮。 その南、旧巴川を渡ってすぐ西側の駐車場の奥に吉川八幡神社の故地と云う古宮があります。 ということは、ここが吉川氏館の西北隅ということだろうか? 東へ進む。 旧巴川に接して説明板が建っています。 【吉川氏館跡】 吉川館は古宮を西北隅とし東西約180m(100間)南北約240m(130間)ぐらいの長方形と伝えられ現在の上の段がこれに当る当方の川流が八津沢川の名残ではなかろうか? この時代の東海道は今の北街道であり、是より能島の地を通って巴川は、綱を手繰る繰舟を用いて渡ったと考えられ能島の八幡社を繰崎八幡と称しこの所を舟越と言った。 尚、吉川の小字に繰崎舟戸の地名がある。 昔は有渡へ渡る重要な幹線であったと考えられる。 この所は初代経義が寿永2年源頼朝より賜り館を築き以後北朝年号康永4年、南朝年号興国5年(1345)まで約160年間居住したと考えられている。 (参考) 寿永2年は1183年で木曽義仲京都に入る年 (参考文献) 有度郷土誌旧有度村 静岡県の歴史中世編静岡新聞社による。 昭和59年1月 有度まちづくり推進委員会 有度公民館歴史クラブ 図によると、この辺りが東北隅。 この川が吉川氏館の東を流れていたと云う旧八津沢川。 館跡の様子。 南に行くにしたがい少しづつ高くなる傾斜地。 図によると、この辺りが南端。 南西隅付近から北を見る。 北へ進んで一周しました。 駐車場の奥に古宮があります。 梶原一族を討ち世に出た吉川氏の故地でした。 |
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場所 静岡市清水区・葵区 瀬名館跡でご紹介した光鏡院。 山門脇に梶原一族いくさの跡案内板があります。 梶原一族について 治承4年(1180)、源頼朝は、平家討伐の旗あげをしたが、相模(神奈川県)の石橋山で敗れ、洞穴に隠れていた。 そこを平家方の将で、大庭景親に従っていた梶原景時が密かに助けた話しは有名である。 景時は、その後、頼朝に仕え平家追討や鎌倉幕府の創立に功をたてたが、頼朝没後の勢力争いに敗れた。 正治2年(1200)一族と共に西国の所領に向かう途中、駿河国、清見ヶ関から大内(清水区)あたりで鎌倉の命を受けたこの地の国侍の待ち伏せに遭い、戦いとなったが利あらず、梶原山に逃れ、一族共に自害して果てた。 梶原山の山頂には、梶原親子を供養した塚があり、地元では梶原塚という名でも親しまれている。 梶原景時 辞世 もののふの 覚悟もかかる 時にこそ こころの知らぬ 名のみ惜しけれ 案内図を拡大。 鎌倉を逃れ、夜間、清見ヶ関を通りかかった梶原勢は、この地に住む入江一族をはじめとする侍たちと戦いとなる。 2.庵原 当時は一面芦原の湿地帯の中であったので、月明かりをたよりに、両軍見えかくれながらの戦いとなる。 庵原は東京の日本橋から169kmでした。 戦場はしだいに高橋、大内と西へ西への移動していく。 3・大内 ここで、梶原勢は、吉川小次郎を主力とする地侍と激突。 景時の三男、景茂と小次郎が一騎打ちとなり秘術をつくして戦い、力つきて景茂が討たれた。 また、負傷した小次郎も間もなく亡くなっている。 4.矢射タム橋 景時は西へ逃げ、瀬名川にさしかかった時、橋のたもとに待ち構えていた地侍が、いっせいに矢を射かけたので、「矢射タム橋」と言われるようになった。 説明板を拡大。 葵区曲金1丁目の旧東海道。 ここにある曲金観音。 この辺りは狐ヶ崎と称し、梶原景時一族と地元武士団との古戦場だったと云う。 少し東へ行った所にある軍神社。 日本武尊が東征の際、此の地で戦勝祈願をしたと云う。 軍神社の東にある馬頭観音。 梶原景時の愛馬「磨墨」をはじめ、一族郎党の愛馬を供養するために建てられた。 川合あたりまで進んだ景時は、更に行く手を地侍に阻まれ、「矢射タム橋」を逆戻りし、矢崎あたりで最後の死力をつくして戦ったがかなわず梶原山に逃れた。 6・梶原山。 もはやこれまでとみた景時親子は、湧き水で鬢(びん)をなおして、山頂で自害して果てた。 梶原山へは、光鏡院の脇から登ると良い。 鬢水。 この地で身なりを整え、自刃の地である山頂を目指したと云う。 説明板。 頂上へ。 【馬上後ろ向きに自刃の山へ登る】 梶原景時たちは、戦いつづけて大内、鳥坂と過ぎ、さらに狐ヶ崎(静岡市曲金附近)に進んだが、すでに後につづく味方の姿は無く、今来た道を引き返してきた。 この”夕日無し山”(大内側から見た梶原山の名)へは、馬の足跡をくらますために、馬を後向きにして登ったという話が伝えられている。 静岡市曲金には「合戦川」、瀬名川には「矢射たむ橋」の名が残る。 梶原山の伝承(3) 梶原会 梶原山頂上。 梶原景時終焉の地碑と供養塔。 碑裏側の説明。 静岡市街と駿河湾が一望。 富士山もきれいに見えました。 梶原山の奥にある一本松公園の桜がきれいとの情報あり、向かう。 途中に梶原親子供養塚の木碑。 約10分で一本松公園が見えてきました。 入り口に冠木門。 一本松公園の桜。 きれい? 咲き始めでした。 一本松公園から静岡市街を見る。 手前の山が梶原山。 夜景スポットだそうです。 下山。 途中に霊山寺。 鐘楼。 仁王門は国の重要文化財。 説明板。 下りる。 仁王の力石。 この仁王様の足跡を踏むと疲れがとれるとか。 参道を下りる。 参道入り口。 熊出没注意 御朱印所。 御朱印。 山麓から見た霊山寺。 西へ進むと梶原堂。 梶原堂の様子。 説明板。 脇には梶原景時、景季、景高の墓。 梶原堂を後にする。 清水区高橋にある高源寺。 駐車場前の説明板。 説明板の下部に案内図。 山門。 境内の様子。 かじのき。 梶原景時一族供養碑。 説明板。 ウナリ地蔵。 本堂。 説明板。 本堂は久能寺から移築されたものと云う。 富士の巻狩りの召集状。 本物。 梶原景時像。 最後に御朱印。 以上、梶原景時いくさの跡でした。 (おまけ) 清水区長崎にある長崎神社。
境内にある天神社。 梶原山から景時が投げ飛ばした馬具の内、轡を祀っていると云う。 鞍は瀬名の登鞍明神(現、利倉神社)に、鎧は鳥坂の浅間社・天王社に祀られたと云う。 草薙神社の記事でご紹介した首塚稲荷神社。 梶原景時の名馬「磨墨」の首が飛んで落ちた所と云う。 |
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登城日 2014年 3月21日(金)晴 難易度 ☆ 場所 静岡市葵区瀬名2丁目 JR静岡駅前からしずてつジャストライン竜爪山線に乗り瀬名リンク西奈バス停下車。 バス停前にある瀬名リンク西奈。 生涯学習センターと図書館の複合施設。 西奈は「にしな」と呼んでいるが、古来は「せな」と呼んだらしい。 瀬名リンク西奈の西側の集落付近に瀬名館があったと云う。 (静岡市のHPより。転載不可。) 瀬名館跡の様子。 特に遺構は見られなかった。 瀬名館の東側に位置する光鏡院へ。 由緒書。 【光鏡院(清涼山光鏡院)】 光鏡院は、今川陸奥守一秀の菩提寺で、長亨2年(1488)僧・恵雲が開山した曹洞宗の寺ある。 文明8年(1476)今川6代当主義忠が不慮の死をとげ、今川一族の間で竜王丸(今川氏親)派と小鹿範満派に分れて争いが起ると、一秀は竜王丸を補佐するため遠江から瀬名に移り住み、瀬名氏と改名した。 以来、一秀は瀬名一族の祖となった。 通称”瀬名館”といわれる字大屋敷は、瀬名集落のほぼ中央にあって、瀬名一秀を祖として氏貞、氏俊、氏詮4代の居館跡であったことが「今川記」に記されている。 今日、遺構は認められないが、今川直系を補佐する一族として瀬名氏の勢力は大きかった。 瀬名砦の所在は不明であるが、光鏡院の裏山と考えられ、永録11年(1568)武田信玄の駿河侵攻の際に落城したことが記録にみられる。 光鏡院をはさんで、2代今川氏貞の菩提寺である「松寿院」や3代今川氏俊婦人の菩提寺である「竜泉院」の一体は、瀬名一族発祥の地であるので、今川一族研究のうえからも、きわめて意義深い土地柄である。 昭和58年10月 静岡市 山門。 左右に仁王像。 右側。 左側。 別名「智慧門」を潜る。 山号は清涼山。 山門裏側には風神雷神像。 風神。 雷神。 境内を進む。 本堂へ。 本堂。 境内にある瀬名一秀供養塔。 裏山に瀬名砦があったと云う。 登って行くとミカン畑。 瀬名砦跡を見下ろす。 やはり瀬名砦は解らなかった。 静岡市HPの図が無ければまったく想像もつかない瀬名館でした。 (おまけ) 3月なのに満開の桜の木。
桜の花。 静岡の気候は温暖ですね〰 |




