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(もどる) 5月5日に相模国府祭(さがみこうのまち)が行われます。 【『相模国府祭(さがみこうのまち)』の御由緒】 国府祭は、現大磯町国府に、昔相模国の国府庁(今の県庁)が置かれた国府本郷の神揃山(かみそろいやま)のお祭りと小字高天原(別名、逢親場・大矢場)で行う国司祭の二つを言う。 相模国の一之宮寒川神社(寒川町鎮座)二之宮川勾神社(二宮町鎮座)三之宮比々多神社(伊勢原市鎮座)四之宮前鳥神社(平塚市鎮座)平塚八幡宮(平塚市鎮座)総社六所神社(大磯町国府鎮座)・相模国の有力大社6社が参加し、相模国を網羅する関東一の最大祭典として、又全国的にも誠にめづらしく貴重なお祭りとして知られ、現神奈川県の無形文化財に指定されている。 国府祭は、国府をコウ、祭をマチと読み「ノ」の助詞をつけて「コウノマチ」と読むのが正しく、奈良・平安時代には2月4日に行なわれていたものが、弘安5年(1282)に5月5日と改り、明治に入って太陽暦となって6月21日、そして昭和40年の始めに再び5月5日に改り現在に至っている。 奈良・平安時代の国府祭は、単なる祭典行事ではなく、国司が祭り主として行なわれる当時の神祇制度と国の行政であった。 祭りと政りが同一であった国司の行政が武家の行政に移り変わり行く中に、相模国の場合は、幕府の所在国の大祭として特に崇敬と保護を加えられ、祭典行事となって継続され現在に至ったものであり、それ故に平安朝の文化と行政を千数百年にわたって伝えている誠に伝統ある価値ある祭典と言える。 国府祭の起源を研究してみると、それは大化改新(645)までさかのぼることができる。 大化改新に於いて日本の国の制度が一段と改められ、地方には国々が再編成されて、新たな国もでき、国の中心に国府(今の県庁)を置き、中央政府より国司(今の県知事のような人)が任命されて国の行政にあたらせた。 相模国も大化改新以前は、今の大磯より東の方に相武(さがむ)と言う国があり、西の方には磯長(しなが)という国があった。 この2つの国が合併して相模国が成立したと言われています。 中央政府より任命された国司は、任国に着くと、先ず最初に神拝または巡拝と言ってその国の有力大社を参拝して回る制度があった。 この回る順番によって後に、一宮、二宮と称されるようになる。 又、班幣(はんへい)と言って毎年2月4日に祈年祭等の幣帛(へいはく)として国幣を各社に班(わか)つ慣いがあり、国府近くに斎場を設けて各社の神主、祝等を招き、班幣の神事と荘厳な祭祀が行なわれ、それと共に各地の豪族も招いて盛大な宴会があった。 しかし、時代がたつにつれて、国司の巡拝は、大変な日数と費用と人員を要するため、巡拝する神社の分霊を国府近くの神社に合せ祀る慣いが起り、これが総社の起源となります。 そして国司は巡拝をやめて総社に神拝し、巡拝にかえ、又、日常の国内安泰祈願所としたのである。 そこで国司は総社に分霊を納めて戴くために、各社に神輿を以って国府に集まるようにお願いした訳である。 国府祭は、国司班幣神事と総社へ分霊を納める祭祀が一体となって年に一度の盛大な行事となっていったのである。 よって、神揃山は班幣の斎場であり、高天原は、総社に分霊を納める祭場であります。 平安朝時代の国司によるこの様な行事は、全国で多少の違いはあっても行なわれたもので、現在でも各県に、一宮、総社等の地名、名前があります。 国司行政から武家の行政と移り行く中に、他の国々ではほとんど消滅していくが、相模国の場合は、鎌倉幕府の所在国となり、総社と五社には、特別なる保護と助成が与えられ、弘安5年には、2月4日を5月5日に改め、将軍の命によって国府祭が行われるようになり、別名を天下祭、端午祭とも言われるようになった。 又、小田原北条氏、徳川家康も先規に慣って、特にこの祭礼に保護と助成にを加えられた事は、古文に見られる所であり、明治に至った。 この様な保護と助成の元に、一宮〜総社までの氏子70々村の人達は、国府祭の伝統護持に努力を重ねてきた事は申すまでもなく、他村を加えことごとく国府に参り、露店1000軒、人出数万人で賑ったと古書には記されている。 国府祭は以上の様な御由緒であるが、古くより国府地区に伝わる伝説があり、ついでに御紹介致します。 総社六所神社の神様が母神様であられ、相模国を治めるために、5人の男の神様をお産みなされました。 そして5人の息子たちに、どうか私にかわってこの相模国を平和な豊かなよい国に治めてくれるようにたのまれました。 5人の神様は、母神の願いに、それずれ国の重要な地に住居せられ、宮居を建てて、一生懸命開墾、開発され、よく人々を治められました。 そして年に一度国府の地に兄弟揃って母神様を尋ねられ、親子1年の逢瀬を楽しまれ、そして土地々々の報告や手柄話しをなされる。 そして本年の五穀の豊作を祈り、平和な国造りを誓ってお帰りになる。 だから相模国は、これらの神様のお蔭で、五穀は豊かで、皆兄弟神の治める土地であるから、村々の争い事のない平和な良い国である。 …と言うような伝説で、国府祭が天下泰平・五穀豊穣・家内安全祈願の祭典であると言われる由縁とも思われます。 (現地配布資料より)地図。 まずは、六所神社へ向かう。 総社の神輿が出発準備をしているところでした。 急いで参拝。 神輿より先回りして神揃山へ向かいました。 途中、一之宮寒川神社の神輿がやって来ました。 武蔵国のくらやみ祭と違い、実際に神輿を運んで来ているようです。 神揃山へ。 御神石。 いつもは無い力石。 仮設の御旅所。 初めて来たのでどこに陣取ったらよいのかわからず、高台へ。 10時30分前に、東側から一之宮寒川神社が登って来ました。 寒川神社の神輿。 神輿はテントの中へ。 神事が行われる。 10時30分過ぎに、西側から二之宮川勾神社が登って来ました。 滑りやすい下りは難所です。 ひっくり返りそうになりましたが、持ち堪えました。 神輿はテントの中へ。 10時40分過ぎに、北側から三之宮比々多神社が登って来ました。 神揃山では二之宮川勾神社と同じルートを辿る。 落ちないように… ワッショイ!ワッショイ! ひっくり返りました。 せっかく難所を無事通って来たのに… (わざとやっている感がありました。) 11時過ぎに四之宮前鳥神社と五之宮平塚八幡宮が西側から登って来ました。 神輿はテントの中へ。 座問答の準備開始。 虎の皮を広げる。 11時50分頃、三宮・比々多神社の社人が小餅の詰まった俵を頭上に掲げて地中に落とすことを繰り返す。 破れた俵の中から小餅を取り出して参集の人々に撒く「チマキ撒き」が行われる。 この餅を食べると病気をしないらしい。 正午近くなり、いよいよ座問答です。 【『座問答』の説明】 これより行われます座問答(ざもんどう)の神事につきまして概略の御説明をさせて戴きます。 今日斎行されております国府祭の祭典の中でも特にこの座問答の神事は誠にめずらしいものとして全国に知られ有名でございます。 又この座問答の言われを今までに多くの人達が研究し発表してまいりましたが仲々確証がございません。 誠に謎の深い神事でもございますが、今日の御説明は定説を御紹介致したいと思います。 今から約1,300年前に大化の改新と言うものが行なわれ日本の国の制度が一段と改められました。 地方に於いては国々が再編成されて新たな国もでき国の中心に国府を置き国司を任命して行政にあたらせました。 相模国も大化の改新以前は、今の大磯より東の方に相武と言う国があり、又西の方に磯長の国と言う国がありました。 この2つの国が合併して相模国が成立したと言われています。 そして相武の国の最も大きな神社が寒川神社であり、磯長の国の最も大きな神社が川勾神社でございました。 両国の合併に当りこの一番大きな神社を決めなければなりません。 なぜならば当時国司(今の県知事のような人)は、巡拝と言って国の中の主なる神社を参拝して巡ると言う事がございました。 先づ最初に参拝するのが其の国の一番大きな神社でなければなりません。 この参拝の順番が後に一宮、二宮、三宮となってゆくのです。 氏子の人々にとっては、誠に重大な事でございました。 それでこの2つの神社の間に相模の国の一番大きな神社はうちの神社ですと言うような論争が起こりました。 そしてこの論争は比々多神社の宮司様が、前鳥神社・八幡宮と相談の上仲裁に入られまして円満解決致しましたがこの論争の模様が儀式化され、神事となって伝わったのが座問答であると言われております。 注縄の中の正面に建てられた5本の鉾は、5社の神様の依り代でございます。 祭場に置く虎の皮は神様の座を意味しております。 そして後方に並ぶ同じ装束の方が5社の宮司様でございます。 同じ処に並んでおります虎の皮を上位に進める事は、当神社が相模国の一番の神社、即ち一宮であると言うことを無言で表わしており、又次にそれより上に押し進める事は、いやいや、当神社こそ相模の一宮であると言う意味であります。 これではいつまでたっても解決されず次の祭典も出来ませんので、その仲裁として比々多神社の宮司様の「いづれ明年まで」と言う言葉で解決される訳でございますが、いづれ明年までが早1,000年以上続いてしまった事を考えますと、勝・負のない神様らしい円満解決の模様であると思います。 2つの国が合併して一宮の論争が起った事は他の国にもありまして、加賀国の成立の時白山神社と府南神社とが、越中の国の成立の時、気多神社と二上神社とが、歴史に記されております。 又この座問答につきましては古くより国府地区に伝説がございまして、ついでに御紹介致しますと、総社六所神社の神様が母神様であらせられ、5人の男の子の神様をお産みなされました。 しかし一宮と二宮が双子の神様でございました、 それで先にお産まれになった寒川神社が長男と言われ、後からお産まれになった川勾神社が、いやいや弟を先にして後から産まれたのが兄であり、川勾神社が長男である。 即ち長男の論争がありまして、三男の比々多神社の神様が仲裁に入って解決されたと言う伝説でございます。 この伝説では長男の争いの様になっておりますが、2つの国の合併が双子としてお産まれになったと言うような言い方です。 以上簡単に御説明申し上げましたが、この座問答の神事は、相模国の成立と言う古い々々事柄の模様が儀式として残った事を考えますと1,000年の昔にもどったようでございます。 これをもちまして座問答の説明と致します。 (現地配布資料より)一之宮寒川神社。 「いやいや…」 二之宮川勾神社。 「いやいや…」 一之宮寒川神社。 「いやいや…」 二之宮川勾神社。 「いやいや…」 三之宮比々多神社。 「いづれ明年まで」 クライマックスの座問答はたった5分で終了。 最後に撒かれた紙吹雪を子供たちが拾っていました。 各神社の神輿へ参拝。 参拝すると由緒書や稲のような草が配られます。 少し時間があったので神揃山の周りを一周。 五之宮平塚八幡宮、四之宮前鳥神社登り口。 北側に一之宮寒川神社登り口がある。 国衙跡近くの平塚八幡宮化粧塚。 神揃山西北にある三之宮比々多神社登り口。 二之宮川勾神社登り口。 再び神揃山。 5社神輿の山下りが行われる。 二之宮の神輿が下りて行きました。 登る時より大変そう。 三之宮比々多神社は相変わらず神輿をひっくり返していました。 ようやく比々多神社も神揃山を下りる。 観ている方は楽ですが… 神輿が馬場公園(大矢場)に向かって進んで行きます。 川勾神社化粧塚。 わっしょい! 神輿が馬場公園(大矢場)へ入って行きます。 この後も神事が続きますが、同日に大国魂神社でくらやみ祭(武蔵国府祭)が行われるので後にしました。 同じ日にやらなくても… |
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場所 神奈川県中郡大磯町国府本郷 相模国分寺は海老名市にあるので、当初相模国府も海老名市にあったと云われる。 その後移転し、平塚市へ遷ったとも。 最終的には大磯町へ遷ったようです。 最寄駅はJR東海道本線大磯駅。 二宮駅北口行きの神奈中バスに乗り馬場下車。 バス停から東へ少し戻り、相府山真勝寺へ。 真勝寺参道。 途中の十字路を右折すると、御両大明神がある。 失礼しま〰す! 御両さまを祀っています。 三之宮比々多神社の御旅所だそうです。 真勝寺は相府山遍照王院といい、宗派は古義真言宗。 天平の頃、聖武天皇、光明皇后の勅願によって創建されたと云う。 12世紀以降は、六所神社の別当寺となる。 治承4年富士川合戦の帰途、源頼朝はここで論功行賞などを行い、大庭景親の処刑を指示したと云う。 本尊は如意輪観音。 バス停へ戻る。 バス停から少し西へ進むと守公神社がある。 社殿。 六所神社の摂社だったそうです。 さらに東隣に馬場稲荷大明神。 守公神社から少し東へ戻った所を左折し北上。 駅前の観光案内所で貰った「大磯まちあるきマップ−国府周辺」によると、この辺りに相模国府の国衙があったらしい。 進んでみたが… 何も無し。 戦前までは「相模国府跡」の碑が建っていたらしい。 西にある神揃山へ。 毎年、5月5日に国府祭(こうのまち)が行われる。 一之宮から五之宮と六所神社(総社)の神輿が御神石の前へ集まって来ます。 説明板。 今どき100円の自動販売機。 ありがたい 神揃山から南下すると馬場公園。 ここは、逢親場、大矢場とも高天原とも言われ、国府祭では鷺の舞が奉納される。 ここは御神石ではなく鉄柱でした。 神揃山への道を南下。 魚が泳ぐ不動川。 神橋を渡る。 相模国総社六所神社へ。 国道1号線に面した参道入り口。 元々は文化14年に建てられた石鳥居があったが、平成8年11月に自動車が追突して倒壊し建替えられたもの 参道を進む。 参道脇に宝積院。 門脇にある梵鐘。 国府に関する文字が… JR東海道線の線路を潜る。 続く参道。 六所神社境内入り口。 入り口の鳩。 境内へ入って東側に六所ひぐるま弁天社。 鯉が泳ぐ。 境内へ入って西側に龍神大神社。 境内を進む。 境内東側。 手水舎。 吐いておられました。 奥に水神社。 社務所。 湯津爪櫛御守。 主祭神櫛稲田姫命の強い霊力を形にしたもの。 女性を守ってくれるそうです。 神楽殿。 六所稲荷大明神。 大神輿殿。 六所神社の神輿。 大神輿殿の北側にお炊き上げ納所。 拝殿へ。 右の狛犬。 左の狛犬。 拝殿でお参り。 境内に木像があるらしい。 国府祭県無形文化財記念碑。 後北条氏寄進の石垣。 境内の北側へ。 広場。 説明板。 打ち捨てられたような稲荷社。 六所神社は、石神台に創建されたと云う。 石神台の頂上付近。 国府配水池となっている。 この辺りに「六所神社旧蹟」の碑が建っているらしい。 最後に御朱印。 国府祭へ向かいます。 (つづく) |
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場所 東京都国分寺市西元町4丁目 JR武蔵野線の車窓から見た武蔵国分尼寺跡。 武蔵国分寺金堂跡南側の道を西へ道なりに進んで行きます。 途中、第四中学校の北側、体育館の一画に、 文化財資料展示室があります。 武蔵国分寺跡、武蔵国分尼寺跡で出土した瓦や皿などが展示されています。 文化財資料展示室から西へ進むと、国分寺四中入口交差点。 ここら辺を東山道武蔵路が写真の方角に延びていた。 府中街道を渡り、さらに西へ。 JR武蔵野線のガードを潜る。 ガードを潜ると武蔵国分尼寺跡。 回廊跡が植栽で表現されています。 境内を斜めに分断するように進む。 説明板。 もう一つの武蔵国分尼寺跡碑。 説明板。 どっち向いてんだ この辺りは境内東側。 金堂跡を東から見る。 境内を斜めに貫通するもう一つの道路。 中門跡を東から見る。 南側回廊跡。 説明板。 回廊跡から中門跡を見る。 中門跡説明板。 中門跡から南門跡の方を見る。 南門跡は宅地となって埋没している。 中門跡から金堂跡を見る。 巨大な幢竿跡。 説明板。 説明板。 説明板。 基壇上部の様子。 金堂跡から中門跡を見る。 金堂跡から碑の建つ東側を見る。 金堂基壇北西隅。 基壇断面を見ることが出来る。 説明板。 木の建っている辺りに鐘楼があった。 金堂跡から北を見る。 講堂跡から金堂跡を見る。 説明板。 尼坊前面幢竿跡。 説明板。 東には斜めに建つ幢竿跡。 説明板。 説明板。 尼坊へ。 尼坊跡。 西を見る。 東を見る。 尼坊跡を道路が貫通。 説明板。 北を見る。 尼坊跡中枢部北辺説明板。 中門までぐるーっと廻っていた。 北辺の北東に掘立柱建物跡。 説明板。 夕焼けの武蔵国分寺。 武蔵国分寺復元絵図。 絵図の武蔵国分寺。 武蔵国分尼寺。 東側に東山道武蔵路が通る。 過去より未来。 瓦。 武蔵国分尼寺跡を後にする。 整備されて見学しやすい武蔵国分尼寺跡でした。 (おまけ) |
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場所 東京都国分寺市西元町2丁目 最寄駅はJR国分寺駅ではなく西国分寺駅。 まずは北口を出て、姿見の池へ。 姿見の池についての伝承は別ページで。 姿見の池の東側を東山道武蔵路が通っていた。 説明板。 角度が悪く読み難い… 南下する。 再び西国分寺駅前。 南口付近は恋ヶ窪廃寺跡。 駅前の周辺案内図。 何となく国分寺っぽい。 国分寺絵図。 この辺りは国鉄下河原線廃線跡。 日本芸術高等学園の東側に東山道武蔵路の遺構が展示してある。 説明板。 ここから南は東山道武蔵路が道路にカラーリングされています。 東山道武蔵路を南下。 読み難くなった東山道武蔵路の説明板。 東山道武蔵路は武蔵国分寺と武蔵国分尼寺の間を貫いていた。 国分寺四小入口交差点で東山道武蔵路の遺構表示は一旦無くなる。 一つ目を右折すると、にんじん健康ひろばの西側で再び遺構が現れる。 説明板。 祭祀の跡? 説明板。 説明板。 東山道武蔵路とは別れを告げ、第四小脇の道を南下。 武蔵国分寺公園入り口。 ここではありません。 国分寺消防署西元出張所。 入り口脇に武蔵国分寺の瓦。 国分寺消防署西元出張所の南側が武蔵国分寺境内の北辺。 八幡神社へ。 参道を進む。 境内。 境内西側に土師竪穴住居跡がある。 八幡神社の東隣にある薬師堂へ向かう。 国分寺仁王門。 説明板。 説明板を拡大。 この付近に北方建物があった。 武蔵国分寺薬師堂。 説明板。 薬師堂から東へ進む。 国分寺ゼルクハウス前に北辺区画溝。 区画溝跡説明板。 僧寺北東地域説明板。 ここから南下すると、崖下に真姿の池。 この辺りは湧き水が豊富。 尾張徳川家の御鷹場に指定されていたことに由来。 お鷹の道の途中に武蔵国分寺資料館があります。 必見です! 入館チケットは道を挟んだ南側の喫茶店で販売しています。 資料館前の庭には七重塔の復元模型があります。 館内には武蔵国分寺跡での出土品や、 復元模型があります。 お鷹の道をさらに西へ行くと、武蔵国分寺があります。 山門説明板。 国を分け 宝を積みて建つ寺の 末の世まで利益残せり 所在地 東京都国分寺市西元町1-13-16 山号 医王山 宗派 真言宗豊山派 本尊 薬師如来(国指定重要文化財) 創建 奈良時代 開基 聖武天皇 境内は万葉植物園となっています。 御朱印は多忙を理由に貰えませんでした 参道入り口。 いよいよ武蔵国分寺跡です。 空から見た武蔵国分寺。 説明板。 講堂跡に武蔵国分寺説明板。 講堂跡から金堂跡を見る。 金堂跡。 礎石が点在。 金堂跡の武蔵国分寺碑。 金堂跡から中門跡を見る。 中門跡。 模型で。 説明板。 調査全体図を拡大。 脇に出土した礎石が保存されている。 説明板。 門跡は植栽で表現されている。 回廊跡も。 南門跡から金堂跡の方を見る。 模型で。 ここから道を東へ進んだ所に七重塔跡があります。 塔跡2。 塔跡1。 説明板。 礎石が残る。 南門跡へ戻り、さらに南下。 東八道路を渡った所に参道口。 冠木門のような門があったらしい。 説明板。 武蔵国府から来た道はここで分岐。 隣接する武蔵国分尼寺へ向かいました。 |
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(もどる) 5月のゴールデンウィークにくらやみ祭(武蔵国 国府祭)が行われます。 日程表。 品川総鎮守荏原神社へ参拝し、海水を持ち帰る。 5月3日から。 同じものがパンフレットで入手出来ます。 囃子の競演。 上手に踊るもんだなぁ〜 10台の山車が集結します。 けやき並木は歩行者天国。 大国魂神社境内へ。 参道に露店が建ち並ぶ。 社殿。 いつもより参拝客が多い。 再びけやき並木へ。 あたりが暗くなってきました。 囃子の競演が続く。 踊っている人は疲れるだろうな〜 観ている方も疲れてきたので。 やがてけやき並木にロープが張られ、神職の方が歩いてきました。 白馬がやって来ました。 競馬式が始まります。 6頭の馬がけやき並木を3往復します。 祭りの賑わいは夜遅くまで続きます。 4日はパスして、5日。 本町に飾られた四神旗と日月旗。 その由来。 境内へ。 今日は神輿渡御があります。 参道に場所を確保するのが大変でした。 18時に随神門が開く。 8基の神輿が御旅所へ向かいます。 獅子頭。 大太鼓。 凄い音です。 通るのがやっと。 一之宮神輿がやって来ました。 一之宮神輿。 二之宮神輿がやって来ました。 二之宮神輿。 三之宮神輿がやって来ました。 三之宮神輿。 四之宮神輿がやって来ました。 四之宮神輿。 五之宮神輿がやって来ました。 揃った隊列。 五之宮神輿。 六之宮神輿がやって来ました。 六之宮神輿。 御本社神輿がやって来ました。 御本社神輿。 また大太鼓がやって来ました。 御霊宮神輿がやって来ました。 御霊宮神輿。 すべての神輿と大太鼓が境内を出て行ったのは20時過ぎ。 境内は露店が建ち並ぶ参道に戻る。 神輿は旧甲州街道を西へ。 府中市役所前交差点。 御旅所前へぞくぞくと神輿がやって来ました。 わっしょい! 御旅所へ入って行きます。 六之宮神輿の鳳凰。 御旅所へ入って行きます。 夜の9時過ぎに大太鼓が響き渡る。 山車もやって来ました。 野口の仮屋へ向かう神馬。 22時過ぎに野口の仮屋から宮司が神馬に乗って戻って来てやぶさめ式が行われる。 翌朝も祭りは続きますが、帰宅の途に就く。 |




