|
登城日 2009年 9月22日(火)曇
難易度 ☆☆
場所 福島県田村市常葉町常葉
福島県にも赤松氏がいました。
【常盤城(旭城)の歴史】
常盤城の名が史料に初めて登場するのは興国元年(1340)だ。
また、文永十一年(1274)に熊谷直友・直則親子が船引から常葉へ移った−との系図が残る。
それ以前から田村地方は田村庄司一族の支配下にあり、常葉にも一族の有力武将がいたに違いない。
田村庄司氏滅亡後、平姓田村氏が三春を拠点に勢力を伸ばした。
親族である赤松顕則が嘉慶年間(1387〜89)から常葉地方を治める。
赤松氏は荒廃した城を修復、町割りを整備する。
子松神社の社殿を築いた。
自らの家紋・三つ巴を神社の紋所とし、姓も「常盤」に改めたとされる。
天正年間(1573〜92)に城主・常盤貞久は田村領主・田村清顕にうとまれ、毒殺の危機に遭う。
貞久は城を捨て、逃れた。
清顕は家臣・石沢修理亮を城代として置く。
同十四年十月、清顕が急死。
後継をめぐり、血縁関係にあった伊達、相馬両氏派に家中は二分する。
修理亮は、最終的に主導権を握った伊達派に属していた。
十七年六月、相馬・岩城両氏の連合軍が常盤城に押し寄せる。
城兵ら約六百人が防戦。
数日間の戦闘で三の郭が落ち、二の郭までが危うくなった時、三春城からの援軍が到着し、窮地を救う。
しかし、重臣・赤石沢美濃守が寝返り、火攻めを進言する。
連合軍の一隊が夜陰にまぎれて侵入、城内に火を放つ。
混乱の中、修理亮や家臣百騎が討ち死にしたという。
(ふくしま紀行 城と館 武者たちの舞台上巻より抜粋)
常葉町の入口。
表彰されてしまった。
山の頂上模擬天守がある。
舘公園になっている。
公園へ登る途中の家。
お城みたい。
公園に到着。
土塁が削られている。
西側には三の郭があった。
草茫々で行けず。
公園案内図。
このあたりもすでに数段の郭がある。
城下を見下ろす。
常盤城の別名、旭城の碑。
常盤城の想像復元図。
登って行きます。
振り返る。
見上げる。
また振り返る。
門跡の礎石みたい。
削平地がたくさんあります。
本丸下の郭。
本丸へ向かう。
想像復元図によると、この坂道は無く、二の丸側に虎口があった。
本丸。
本丸の模擬天守。
常盤城に天守は無かった。
城址碑と土塁。
城址碑と土塁と模擬天守。
説明板。
赤松顕則は、赤松円心の孫で春日部家(丹波黒井城のある春日部庄を領地としたことに由来)に実在するのだが、その赤松顕則がこの地へ来るとは思えない。
年代は合うのだが、同名別人だろう。
常盤城本郭の碑。
二の郭を見る。
二の郭。
何故か草茫々。
二の郭直下にも削平地が連なる。
日本庭園も見えました。
無数の郭がありました。
きれいに草が刈られて見やすい。
本丸の北側へ行ってみます。
一旦本丸へ戻る。
ここが本丸への正式な虎口だったのでは。
本丸北側の郭。
トイレがある。
その間は、空堀で仕切られている。
振り返る。
阿弥陀堂跡。
五の郭。
先に行ってみる。
その下にも郭が段々に連なっているようだが、ここで引き返した。
見やすく整備されているものの、小さな郭がたくさんあって、反って良く解らなかった。
四の郭はどこだったんだろう?
城下の成願寺には移築裏門があったそうだが、見落とした。
帰りに感謝された。
城下には案内板が無く、手探りでの訪城だった。
本郭に案内板があって、初めて何となく解った。
結局、常葉町では1円も使わなかった。
これで感謝されるのはどうかと思う。
もうちょっと、観光客を上手に相手する工夫をした方がいいのでは?
もったいない。
|