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登城日 1回目 1995年 2回目 2009年12月23日(水)小雨 難易度 ☆ 場所 大阪府高槻市殿町 芥川城は、JR高槻駅の北側を東西に通る西国街道沿いにあったという。 詳しい地図で見る 【芥川城の概要】 芥川城(あくたがわじょう)は大阪府高槻市にある城。 同じ高槻市にある能勢頼則が築城した山城も芥川城と呼称されている。 現在では便宜上、殿町周辺にあった城を「芥川城」、三好山にあった城を「芥川山城」と区別している。 芥川城は、いつごろ築城され、いつごろ廃城になったのかは明確に解っていない。 古文書に「芥川城」と明記されているが、三好山にある芥川山城をさしている場合もあり複雑にしている。 また芥川山城の築城後、平時の居館として活用されていたこともあるが、その後の経過については不明である。遺構は殆ど残っておらず石碑だけになっている。 推定地は、芥川橋から京都方面にまっすぐに延びていた西国街道が、現在の芥川2丁目付近で急に北に折れ曲がり、芥川3丁目付近で再び西に戻ってくる不規則な街道になっていることから、城を避けて西国街道が作られたと考えられており、JTの医療総合研究所を中心に荒川2、3丁目及び殿町が推定されている。 芥川城は芥川氏によって築城されたと思われている。 芥川氏の本拠地は平安時代の芥川宿であり、鎌倉時代には幕府の御家人となり、この前後に築城したと思われている。 高槻市史によると芥川氏は「非開発領主型の武士であっただろう」としている。 その後、芥川氏の成長と共に城も拡大を繰り返し、南北朝時代には相当な地域へ拡張したと思われる。 しかし、応仁の乱で芥川氏は西軍の軍門に降り、芥川本家は歴史から名を消してしまう。 あるいはこの時代に芥川城は廃城になった可能性がある。 再び芥川の地を細川高国の命をうけ、能勢頼則が再建に動き出すことになる。 永正13年(1516)には芥川山城を築城し、芥川城は平時の居館として活用されていたという説もある。 (wikipediaより)JR高槻駅前にあった観光案内図です。 駅の観光案内所には親切なパンフレットがあります。 是非とも立ち寄るべし! 駅前は上宮天満宮の参道となっています。 西国街道沿いの石碑。 何て書いてあるんだろう? しろあと歴史館に解説があったが、よく読まなかった。 西国街道と高槻城下町へ行く道の分岐点。 芥川仇討の辻である。 ここは芥川宿の東口にあたる。 京都から数えて2番目の宿場町で、大いに栄えたという。 説明板。 お決まりのマンホール。 市の花ウノハナと、市の木ケヤキと、摂津峡の春をデザインしている。 詰め込みすぎて解りにくい。 教宗寺。 説明板。 石風呂があるそうですが、閉まっていて見れなかった。 このあたりに芥川城があったと推定されている。 西国街道から少し北に入った住宅街の一角に石碑が建っている。 前回は見つけられなかったが、高槻市観光協会のパンフレットをJR高槻駅でもらって、ようやく探しあてました。 ここは芥川城主の子孫が住んでいるとか。 長屋門が立派でした。 城跡を示すものはこれだけでした。 西側の土手にあったまねき猫。 儲かってるんやろなぁ。 芥川宿の西側にあった水門跡。 脇には、橋詰地蔵が建っている。 芥川橋。 西国街道(山崎道)は西宮まで続いている。 芥川。 五月には、栃木市の巴波(うずま)川のように、川の上空を鯉のぼりがたくさん泳いでいたはず。 このあたりには、このポスターがたくさん貼ってあった。 社民党は好きではないが、この人はオモロイ。 南には現在の西国街道である国道171号線(通称イナイチ)が通っている。 相変わらず交通量が多い。 ラーメン横綱はまだあった。 しかも、結構繁盛しているようだった。 道端には何故か壺があった。 めずらしい壺らしい。 (おまけ) 摂津の戦国時代といえば、ここ高槻市内を本拠地として機内を制圧した三好氏を抜きにして語れない。 三好氏は、芥川山城を本拠地としていた。 (写真は10年くらい前のもの。今回も行かなかった。最近、山城へ行く気力が無くなってしまった…) 三好氏の最盛期は三好長慶の時である。 (何故か霊松寺にあった解説板。) 芥川城の東北にある霊松寺 |
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2009年12月25日
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