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(もどる) 案内板でおさらい。 天狗岩用水と交差する付近に西木戸がありました。 碑と説明板が建っています。 説明板。 隣の説明板には、ここが群馬県水力発電所発祥の地であると書かれていました。 唯一取水口跡が残っています。 さて、この下を流れるのが天狗岩用水です。 天狗岩用水については次のような話が伝わっています。 総社領主秋元長朝は、水不足に悩んでいた領地を実り豊かな土地にしようと考え、用水をつくることを計画しました。 しかし、知行高が六千石の秋元氏にとって用水づくりは経済的にも大きな負担であり、領民の協力なしにはとても完成しない大変な事業だったため、3年間年貢を取り立てないことにして領民の協力を得、慶長7年の春に用水工事に取りかかりました。 工事は最初のうちは順調に進みましたが、最後には、大きな岩が立ちはだかって、とうとう工事は行き詰まってしまいました。 困り果てた秋元長朝や領民は、領内の総社神社にこもって願をかけました。 すると、その願明けの日、工事現場に突然一人の山伏が現れて、困り果てている人々にいいました。 「薪になる木と大量の水を用意しなさい。用意ができたら、岩の周りに薪を積み重ねて火を付けなさい。 火が消えたらすぐに用意した水を岩が熱いうちにかけなさい。そうすれば岩が割れるでしょう。」 人々は半信半疑で教えられたとおりにしたところ、見事に岩が割れました。 人々がお礼を言おうとしたら、すでに山伏の姿がありませんでした。 そんなことから、誰とはなくこの山伏を天狗の生まれ変わりではないかと語り合うようになりました。 その後、人々は取り除かれた岩を天狗岩、用水を天狗岩用水と呼ぶようになりました。 総社の人々はこの天狗に感謝して、取り除かれた大きな岩の上に祠を建ててまつることにしました。 これが「羽階権現」で、今も、総社町にある元景寺の境内にまつられています。 秋元長朝が計画し領民たちの協力によって進められた天狗岩用水は、3年の年月をかけて慶長9年(1604)にようやく完成しました。 この用水のおかげで領内の水田が広がり、総社領は六千石から一万石の豊かな土地になりました。 秋元)氏は長朝の子である泰朝の時に、甲州谷村(現在の山梨県都留市)に転封となり総社の土地を離れますが、総社領の農民は用水をつくった恩人である秋元長朝に感謝を込めて、慶長9年より172年後の安永5年(1776)、秋元氏の菩提寺である光巌寺に「力田遺愛碑」を建てました。 力田遺愛碑を建てるにあたって、村々では農家一軒につき一にぎりの米を出し合ったと伝えられています。 このことは、農民が領主であった長朝をどんなに慕っていたかを示すものといえましょう。 (「前橋の文化財」前橋市教育委員会より抜粋) 西木戸跡から今度は南へ行ってみます。 「総社公民館入口」と書かれた石碑の所を曲がります。 総社公民館に総社城の絵図があります。 文化財めぐりの絵図もあるのですが、薄くて読めませんでした。 その東側にある総社資料館。 古墳時代から現在までの総社の歴史が良く解ります。 係の方がとても親切に説明してくれます。 必見です! そして、公民館から少し南西に行った所にある秋元氏の菩提寺である光厳寺。 所在地 群馬県前橋市総社町総社1067 山号 秋元山 宗派 天台宗 本尊 釈迦牟尼如来 創建 慶長12年(1607) 開基 秋元長朝。 佐渡奉行街道沿いに建つ棟門。 参道を進むと楼門が見えてくる。 脇に建つ光厳寺の説明板。 楼門の南側には長屋門があります。 長屋門から入る。 大きな本堂。 本堂の奥に秋元氏の霊廟が建っています。 霊廟前に建つ七重多層塔。 市指定重要文化財。 立ち入り禁止の霊廟の敷地内に、天狗岩用水の話で出てきた「力田遺愛碑」があります。 残念ながら説明板さえも読むことが出来ませんでしたが、近くの総社資料館に詳しい資料があります。 さてもう一つ、この光厳寺薬医門は総社城の移築城門ではないかとの説があるそうです。 寺は肯定していないようですが… 寺の目の前には宝塔山古墳があります。 国指定史跡。 復原図。 石室。 中の様子。 こんな石棺だそうです。 (総社資料館にあります。) 宝塔山古墳の上は、秋元氏の歴代墓地になっています。 墓の上に墓があるなんて変ですねぇ〜 宝塔山古墳から東を見る。 遠くに前橋城址に建つ群馬県庁が見えます。 この日は、勝山城→総社城→蒼海城→八日市場城→大友城→石倉城→前橋城(厩橋城)と廻る壮大な計画を立てていたのですが、午前中に予定外の石戸城へ行ってしまったのと、勝山城で思わぬ発見をしてしまったことから、ここで日没を迎えてしまいました。 続きは後日。 (おまけ) |
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登城日 2010年 4月10日(土)晴 難易度 ☆ 場所 群馬県前橋市総社町総社 【総社城跡】 慶長6年(1601)蒼海城に封じられた秋元長朝が、父景朝が眠る地、利根川崖地と越後道街村との間に築城した平城である。 植野堰の開発と築城、城下町づくりを平行して実施、慶長12年に完成した。 総郭南北780m、東西750mの同心円状の縄張りで、遠構えの西は天狗岩用水を大堀とし、各郭は濠と丸野づら積みの石垣で被覆されていた。 二の丸中央には遠見山古墳を利用した物見台があった。 寛永10年(1633)城主秋元泰朝が甲州谷村城(都留市)へ転封後廃城となった。 本丸は利根川により崩壊、二の丸三の丸も住宅化し、旧状は堀跡の一部と物見台のみである。 平成13年3月吉日 総社地区史跡愛好会 勝山城の堀跡から続く五千石堰用水が南へと流れていきます。
この用水が、総社城の外堀でもあった。 かつてはこんな城だったと云う。 (総社小学校前の総社公民館の敷地内にあります。) (総社公民館からちょっと東へ行った住宅地の中にある総社資料館にあります。) 城を囲むよう佐渡奉行街道が通っています。 街道沿いに城下町が形成されていました。 街の入口には、南と西に木戸が設けられていました。 城下町の東を利根川、西を天狗岩用水が流れています。 (この図も総社資料館にあります。) 今は、住宅地と畑地の入り混ざっていて、かつてここに城があったなんて想像し難いです。 勝山小学校の西端を五千石堰用水に沿って南へ下ると、双休道祖神がおられます。 ここに小さな案内板がありました。 このような小さな案内板が町の至る所に設置してありました。 本当に助かります。 ただし、勝山城址や総社城址示された所に行くと、何もありません。 正確性に欠けますので要注意。 この双休道祖神交差点付近は、「給人城川」という地名だったそうです。 南へ行くと大手、西へ行くと西木戸です。 東へ行くと本丸ですので、東へ行ってみます。 住宅地の中に城川公園があります。 この公園に、冒頭の説明が書いてある説明板が建っています。 公園の前の窪地。 絵図にはありませんが、まるで大きな堀跡のように見えました。 総社城跡を削ってしまった利根川の痕跡でしょうか? この窪地の東側に二の丸がありました。 二の丸は住宅地になっており、痕跡は見当たらなかったです。 住宅が微高地に建っていました。 土塁の上に建てたのでしょうか? この道の東側に本丸があったそうですが、利根川に削られてしまったと云う。 利根川から見上げる。 断崖絶壁になっています。 対岸から見る。 自然の力の偉大さを感じました。 勝山小学校付近の丸っこい石垣が見られました。 かつてはこのような石垣で出来た城だったのかなぁ〜と想像しました。 二の丸と南へ行くと遠見山古墳があります。 櫓台として利用されたと云う。 説明板。 ここ総社は古墳が多いです。 昔から上野国の中心として栄えていたのでしょう。 登ってみようかなぁ〜と思い、ウロウロしましたが道が見当たりませんでした。 犬にさんざん吠えられて退散しました。 石室も無かったです。 遠見山古墳をさらに南へ行き、県道6号線大渡橋西詰交差点の南側に南木戸がありました。 碑と説明板が建っています。 説明板の向こうに、佐渡奉行街道が西へ延びています。 かつて、この両側に総社宿の街並みが形成されていました。 佐渡奉行街道は総社町総社交差点付近で北へ曲がります。 交差点の北側付近に総社宿の本陣がありました。 総社宿説明板。 佐渡奉行街道と五千石堰用水が交差する付近に鎮座する総社大神宮。 説明によると、この東側に大手門があったと云う。 と云うことは、五千石堰用水に架かるこの橋付近にあったのかもしれません。 大手門跡付近から総社城を見る。 遠くに二の丸跡にある遠見山古墳が見えます。 大手門跡の北に鎮座する熊谷稲荷神社。 説明によると、善政を布いた秋元氏が甲州谷村城へ転封となった後に入国した安藤氏によって農民は困窮、幕府に直訴したがとりあげられず、この稲荷に祈ったところ前領主秋元氏の援護もあって勝訴したと云う。 さて、佐渡奉行街道に戻り、今度は西へ向かいます。 (つづく) |
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