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登城日 2010年 6月17日(木)晴 難易度 ☆ 場所 群馬県前橋市総社町元総社 所在地 群馬県前橋市総社町元総社2038 主祭神 経津主命・金山昆古神・金山昆賣神 例祭日 3月 7月 10月の各21日 創建 不詳 【宮鍋神社由緒】 人皇第十代崇神天皇の第一皇子豊城入彦命が東国統治の命を奉じ、この地方に下降した際、宮之辺の地に経津主命を祭祀して武運長久を祈ったのが、総社神社の始まりと伝えられております。 その後、九十六代後醍醐天皇のとき、元弘の乱で北条氏が滅び建武中興の世となりました。 足利直義は戦功により関八州とそれに付属する伊豆、甲斐、越後の国の行政権を与えられ、天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入部しました。 家臣「長尾佐衛門尉景忠」は上野越後守護代となり、四男忠房は上野国府の地を給わりました。 忠房は国府を城郭化し蒼海城と称し、宮之辺の地より総社神社を現在地へ移したようです。 神社裏の貞和5年(1349)の宝塔も長尾氏一族の建立したものであろうと群馬県人名大辞典に書かれています。 長享2年(1488)9月28日、僧の万里集九が角淵(玉村)より白井へ向かう途中、国分寺跡あたりから見た展望を日記に「隔一村馬上望拝上野之総社」(一村を隔てて馬上より上野総社を拝す)とあります。 また。古総社(現宮鍋神社)の前を通過する折に「数株老樹斧屑残」(数株の老樹に斧の傷跡を残す)とあり、これらの日記から察するに永禄9年(1566)頃、武田軍と長尾軍の合戦により焼失した惣社神社は、宮之辺の地ではなく現在地であろうと思います。 次に宮鍋は宮之辺が変化したのではなく、惣社神社移転の跡地の東傍らの屋敷(2041、2042番地)に鋳物を業とする人々が定住して、経津主命に鋳物師が崇敬する製鉄の神、金山昆古神、金山昆賣神を合祀して「宮鍋神社」と称したのであろうと思います。 鍋という字は、他県の鋳物師の氏神には数多く使われている様です。 前記二屋敷跡より多くの鋳物屑が発見されております。 明治30年10月に木造鳥居の建立記録が殿小路町にあり、大正8年4月16日総社神社に合併されましたが、昭和6年12月1日県の指示により、再び宮之辺の地に移転となりました。 当社は今なお「宮鍋様」と称して、殿小路町、粟島町の崇敬の社であります。 以上の事項は、各種記録、史料、伝説、考古学者の研究資料等に基づき記載したものであります。 埼玉県児玉郡金屋にある古文書に 傳馬壱疋可出候惣社之鋳物師 被可除一里一銭也仍如件 戌 虎印 三月八日 塀和伯耆奉之(戌三月は天正十四年丙戌) 惣社から小田原まで宿々中 平成5年6月 上野国惣社址の碑 境内には社殿は無く、小さな祠があるのみ。 さて、長尾忠房がこの地に鎮座していた総社神社を移して蒼海城を築城したと云う。 境内の片隅に、木碑と説明板が建っているのだが… 近づいても掠れて良く解らない。 説明板も良く読めなかったです。 総社神社へ行ってみる。 所在地 群馬県前橋市総社町元総社1-31-45 主祭神 磐筒男命 磐筒女命 經津主命 宇迦之魂命 須佐之男命 配祀 上野國内五四九社の神 創建 平安時代 神社略記。 鳥居を潜って入る。 茅輪。 毎年6月30日に参道中央の石鳥居に設けられた茅輪をくぐり、災難や疫病を免れる神事が行われるそうです。 手水舎。 前橋市指定天然記念物のケヤキ。 神楽殿。 毎年3月15日に太々神楽が行われる。 本殿。 この境内に蒼海城の縄張図がある。 工事の人がスコップを放置(怒) 説明板。 縄張図を基に蒼海城の中心部へ戻ってみる。 宮鍋神社の南側は殿小路と云う地名が残る。 その西側の窪地。 堀跡と云う。 かなり大きな堀だったのかな。 そのさらに西側では何か発掘作業をしていました。 何が出てきたのか気になります。 宮鍋神社の西に鎮座する御霊神社。 宮鍋神社と御霊神社の間に本丸があったと思われる。 由緒書。 総社長尾氏の歴史も書いてある。 西側から見る。 北側を見る。 道路が堀跡にも見える。 蒼海城跡の北を流れる牛池川。 かつて風呂沼と云われ、外堀の役目をしていた。 化粧薬師。 化粧薬師の説明。 しぶかわ道。 真っ直ぐ行くと山王廃寺跡にたどり着く。 女堀跡と云う。 女堀は農業用水のことのようです。 蒼海城は、上野国守護代も務めた総社長尾氏の本拠地であったが、天正18年(1590)徳川家康が関東に入ると、蒼海城には諏訪頼水が入った。 諏訪氏が先祖の地である信濃高島城へ移封となると、替わって秋元長朝が入封するが、総社城を築いて移り廃城となった。 |
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