三日月の館 2

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登城日  1回目 1992年頃
       2回目 2000年 9月頃 晴
       3回目 2010年10月10日(日)晴 他

難易度 ☆
場所   京都府福知山市字内記(内記一丁目)5

明智光秀が築いたドッコイセの町に聳える城です。

詳しい地図で見る

車窓から見た福知山城。
イメージ 1

京都駅から鈍行で約2時間。
(特急でも1時間半)
ようやく福知山駅に到着。
遠いなぁ〜
着くと見慣れぬ駅。
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以前は高架では無かった。
構内の食堂で売っていた「焼肉丼」or「スタミナ丼」がとてもおいしかったのですが…
探したけど無かったです。
(駅構内に餃子の王将があるのは驚きました。)
駅は少し城を意識しているのかな。
イメージ 3

駅前のビジョン。
蔵をイメージしているのかな。
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まずは、観光案内所で情報収集。
「光秀くん」と妻「ひろこさん」が笑顔でお出迎え。
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福知山には城以外にも見所があるとか。
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かつての福知山。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/89/a1/kanezane2/folder/607784/img_607784_12545431_192?1288104858_
この観光案内所に掛かっていた福知山城郭探索案内図。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/89/a1/kanezane2/folder/607784/img_607784_12545431_191?1288104858_
この城郭探索図を何とかGetすることをお薦めします。
来年には市内各所にこの城郭案内図を元に案内板と石碑が設置される計画がるそうですが、現状は何もありません。
残念ながら、この案内図は観光案内所では入手出来なかったです。
(何のための観光案内所なの?)
通常は市役所にあるらしいのですが、土日は開いていないので困りました。
(最終的には運良く福知山城でいただきました。)
しあわせロードを通って福知山城へ向かいます。
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幸福を育む竹の精『福童』。
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約10分程で福知山城へ到着。
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当時は無かった昇龍橋を渡って福知山城へ登る。
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開館時間と休館日に注意!
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昇龍橋を振り返る。
コケたら怖い。
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転用石の混ざった石垣沿いに進む。
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塀沿いに転用石が保存、展示されていました。
いっぱい盗ってきたんだなぁ〜
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説明板。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/89/a1/kanezane2/folder/607784/img_607784_12545431_193?1288104858_
釣鐘門から本丸へ入る。
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釣鐘門を振り返る。
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正面に大天守が聳える。
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脇に小天守。
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豊磐井。
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城郭内の井戸として日本一の深さ(50m、海面下に達する)を誇るという。
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足が竦みます。
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説明板。
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【福知山城と城下町】
福知山のまちは、天正7年(1579)に丹波を平定した明智光秀が城を築き、城下町整備に着手したことではじまったものと伝えられ、福知山城も光秀ゆかりの城として知られています。
城は明治の廃城令により本丸・二の丸の建物が取り壊され堀も埋められ、天守閣周辺の石垣しか残されていませんでした。
しかし、昭和61年に市民の熱い想いで天守閣が再建され、福知山の美しい四季を背景に往時の姿をしのばせています。
城地は市街地の南から北東に向かって突き出した丘陵上(標高約40m・幅約100m)に位置し、周囲を由良川・土師川、丘陵で四方を守られた要地にあります。
中世には天田郡の豪族、塩見氏がこの地に横山城と称する山城を築いたといわれています。
丹波を平定した光秀は、福知山城の縄張りを行い、治政に反抗的な近隣社寺を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したと伝えられています。
一方ではこれらの石塔は城のお守りとしたのではないかとも言われています。
天守の一部は、城再建時の発掘調査の成果や石垣の特徴から、光秀の時代に造られたことが確認されています。
光秀は城下町を造るために堤防を築いて由良川の流れを変え、町に地子銭(税金)免除の特権を与えて商家を育てたとも伝えられています。
その期間は短いものでしたが、光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社に祀られ、「明智光秀丹波を広め 広め丹波の福知山」と福知山音頭に今も謡われるなど、広く永く市民に親しまれています。
光秀の丹波平定後、城には家臣明智秀満が入りました。
光秀没後は羽柴秀長の家臣が管理したと言われ、その後杉原家次、田中吉政、小野木重勝と続きました。
関ヶ原の合戦後、有馬豊氏、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房、朽木稙昌と交代し、その後朽木氏は福知山藩主として幕末まで在城しました。
今に残る城下町の形態と壮大な城郭が整備されたのは、有馬豊氏の時代と推定されます。
【城郭プランと天守閣】
福知山城や城下町の絵図は有馬・稲葉・松平・朽木時代のものが残されています。
これらのうち、松平時代(1649〜1669)の絵図をもとに、具体的な様子をみてみましょう。
城郭部は横山丘陵先端の地形を利用しています。
東は法川を利用した大堀を、西は堀と土居を、南には堀切を、北東側は由良川を堀と見立て、城下四方を防御する「総郭型」(総構え)の構造となっています。
丘の先端に天守台と本丸を置き、二の丸・伯耆丸(三の丸〜現在市役所の南にある丘)が西へと続きます。
南側の低地には「御泉水(ごせんすい)」とよばれる庭園と蔵・馬屋敷、その西側には内記(ないき)丸(西の丸)が配置されていました。
このうち石垣を持つのは丘陵上の城郭主要部のみでした。
再建された天守閣は大天守、小天守、続き櫓から構成されています。外観は3層ですが、内部は4階となっています。
古文書や門・玄関の配置から、天守閣は西向きに建てられており、西から見るのが正面の姿といえます。
【福知山城の石垣】
石垣は、表土を削り溝状に岩盤を掘り込んで、安定した根石を据えるよう工夫されています。
図(「天守部分現存石垣配置図」)は現存の石垣を示したものですが、天守台(A部・B部・C部)は、すべて岩盤上に積み上げられたもので、内部はこぶし大から人頭大の栗石でびっしりと充填されていました。
本丸のD部は、岩山の斜面に積み上げられた構造となっています。
福知山城に現存している石垣は、大小の自然石(野面石)を用いた「穴太積み」技法によって積まれています。
天守台・本丸の石垣は、発掘調査の結果から、3回の増築が行われていることが確認されています。
また、石垣には五輪塔・宝篋印塔などの石塔が大量に転用されています。
現在、石垣に組み込まれているものが約90点、天守台内部から出土したもの(石垣内部の栗石として使われていたもの)が約250点、近代以降の積み直し部分には約70点が使用されており、その多くはA部に集中しています。
年号が刻まれているものでもっとも古い石塔は延文4年(1359)、新しいもので天正3年(1575)です。

天守の鯱瓦。
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同じものが、駅構内にもあります。
イメージ 24

それでは、天守閣へ入ります。
つづく

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