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登城日 2010年10月23日(土)曇 難易度 ☆ 場所 岐阜県不破郡垂井町1349 関ヶ原を歩いてみようかと思い行ってみると… 関ヶ原駅にある案内板の一番左側に、 「美濃 垂井城主 一万二千石 平塚為広 推定兵数400」 と書かれていました。 垂井といえば、岩手山にある竹中氏陣屋や菩提山城を連想するのですが、垂井城らしきものを見た記憶がありませんでした。 最近、関ヶ原には熊が出没したこともあり、一駅引き返して垂井城へ行くことにしました。 詳しい地図で見る 駅から細い路地を西へ歩いて、垂井の泉を目指します。 しばらく歩くと、南宮大社へ向かう道に突き当ります。 玉泉寺の前に、垂井の泉があります。 説明板。 【垂井の泉と大ケヤキ】 この泉は、県指定の天然記念物である。 大ケヤキの根元から湧き出し、「垂井」の地名の起こりとされる。 「続日本紀」天平12年(740)12月条に見える、美濃行幸中の聖武天皇が立ち寄った「曳常泉」もこの場所と考えられており、古くからの由緒がある。 近燐の住民たちに親しまれる泉であっただけでなく、歌枕としても知られ、はやく藤原隆経は、 昔見し たる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける 『詞花集』 と詠んでいる。 のちには芭蕉も 「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」 という一句を残している。 岐阜県名水50選(昭和61年)に選ばれている。 この大ケヤキは、樹齢約800年で、高さ約20m、目通り約8.2m。 このようなケヤキの巨木は県下では珍しい。 この木にちなんで、木が堅くて若葉の美しいケヤキを垂井の「木」とした。 垂井の泉全景。 大ケヤキ。 その根元から湧き出す垂井の泉。 根元には「垂井之泉」の碑が建つ。 垂井の地名の由来と云う。 日本武尊も立ち寄ったと云う清水。 近所の方が水を汲んでしました。 さて、垂井の泉の南側に一段高くなった所があります。 現在は、専精寺の境内となっています。 江戸時代には、儒学者櫟原踅斎により泗水庵という聖堂が建てられたと云う。 そして、安土桃山時代にはここに垂井城があったと推定されています。 説明板。 【平塚為広と垂井城跡推定地】 ここは関ヶ原合戦に活躍した西軍の武将平塚為広の居城跡といわれています。 平塚為広は、豊臣秀吉に仕え、1万2千石の垂井城主となりました。 大谷吉継と西軍に属し、伏見城の戦い、大垣城の譲渡交渉などに活躍し、決戦当日には病気の吉継に変わり、太谷隊を指揮しました。 小早川秀秋が西軍を裏切り太谷隊へ攻めかかると、為広は大長刀を振り回し、小早川隊を再三追い返しましたが力尽き、山内(小川祐忠の間違いか)の家臣樫井太兵衛に討たれました。 敗軍の中、辞世の歌を大谷吉継に送っています。 名の為に捨つる命はおしからじ ついにとまらぬ浮き世と思えば 垂井町教育委員会 城址碑と辞世の句。 専精寺本堂。 残念ながら、ここが周辺より一段高いことからここに垂井城があったと推定されるのみであり、周辺に城跡を示す痕跡は見当りませんでした。 (おまけ) 玉泉寺の北側から湧き出る高清水。 東海地方の名だたる茶会の時、この水が利用されるという。 味は、郡上八幡の宗祇水に似ているそうです。 (といってもさっぱり解りません。) 垂井城跡の北側を東西に中山道が通っていました。 中山道沿いに垂井宿がありました。 西の見付。 安藤広重の垂井宿の版画は、ここの風景を描いたものという。 西の見付付近で見かけたポテトチップスの自動販売機。 珍しい。 西の見付と垂井城跡の間に、鎌倉時代中期から戦国期にかけて垂井周辺を治めていた長屋氏の屋敷があった。 大椿が目印。 説明板。 【太平記ゆかりの地 足利尊氏滞在の長屋氏屋敷跡】 文和2年(1353)6月13日北朝の後光厳天皇は南朝軍に京都を奪われ、足利義詮らと共に垂井へ避難され、一時、垂井の長者長屋氏の屋敷を仮御所にされた。 その頃、原・峰屋らの南朝軍がここを襲うと聞き、急いで美濃国守護土岐頼康の居城である、揖斐小島の頓宮へ移られた。 後光厳天皇は、8月25日足利尊氏の西上を聞き、頼康の造営した垂井頓宮へ戻られた。 9月3日尊氏の大軍が垂井に到着し、尊氏は直ちに天皇に拝謁、天皇を安堵させた。 尊氏の垂井での宿舎は、垂井の長者長屋氏の屋敷で、後光厳天皇の仮御所になった所である。 その後、尊氏はここで病気になり、天皇の京都への還幸は遅れた。 17日尊氏の病気もなおり、天皇を中程にし、義詮が先陣、尊氏が後陣の隊列をつくり、垂井頓宮を後に京都へ出発された。 遺構は無く、「重要文化戦史蹟 長屋氏屋敷の跡」が建つのみ。 小さな碑にも説明が書いてありました。 鎌倉権五郎景政七世之孫長尾小四郎景頼承久乱自相州来濃州宗秀宗房景家景国景木以景元景教将監景重至天文九年住足井此所即其奮地成此今敷地一町三反歩 意味は、 鎌倉権五郎平景政七世の孫、長屋小四郎景頼、承久の乱で相州より濃州へ来た。 宗秀、宗房、景家、景国、景森、景元、景教、将監景重に至る。 天文9年足井(≒垂井)ここに住む。 即ちここはその舊地成り。 敷地は一町三反歩だった。 かな? (余談ですが、景重の子が金森長近を継いだ金森可重である。) 最期にお決まりのマンホール。
相川沿いの桜並木と鯉、周りには町の花であるツバキが描かれていました。 |
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2010年11月26日
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