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まずは、またまた尼崎城今昔図。 この図を見なかったら素通りしていただろう。 元々、福知山線は明治24年(1891)に尼崎港駅から塚口駅間に開業した川辺馬車鉄道を発祥とする。 線路跡は国道43号線を潜り北東へ真っ直ぐ延びていた。 尼崎城東の丸付近から塚口方面を見る。 ここから写真の時間が逆に進みます。 (後から戻ったので見辛くてスミマセン。) 南城内の交差点の先には鉄道柵が現存。 廃線跡を正面から見る。 尼崎港駅方面を振り返る。 柵沿いを塚口方面へ進む。 やがて阪神電鉄と交わる。 交差付近から尼崎港駅方面を振り返る。 線路跡の両側に道があり、敷地は宅地分譲されている。 上空から見ると、細長い敷地に宅地が連なっています。 西を見ると阪神電鉄尼崎車庫。 古図によると、この附近に古城の表記がある。 近世尼崎城の前身である大物城があったと云われている。 阪神電鉄を潜った付近。 踏切の柵かな。 阪神電鉄の高架の北側に「大物くづれ戦跡」の碑が建っています。 説明板。 【大物くずれ戦跡碑】 応仁の乱をきっかけに、戦国時代となった頃、室町幕府の実権を握った細川氏も、内部で対立していきます。 細川政元の養子、高国と甥の晴元がそれぞれ対立すると、尼崎の地でたびたび戦火を交えています。 享禄4年(1531)両者が決戦するに至ったとき、高国勢は総くずれになり。高国が居城した尼崎城(大物城か)へ逃げこむ程の大敗となりました。 晴元勢の追撃は激しく高国は大物の広徳寺で自刃しました。 この戦いを世人は「大物くずれの戦い」とよんで、語り伝えられてきました。 尼崎市教育委員会 そして、この戦いは、
当時の赤松氏当主赤松政祐(晴政)は、父赤松義村を亡きものとし下剋上した備前国守護代浦上村宗への仇討の好機と見て急遽参戦。 西宮方面から進軍し、細川高国・浦上村宗連合軍を挟撃し全滅させ、念願を果たした。 ちょっと脱線してしまったので、先へ進みましょう! 宅地分譲されずに残る敷地。 宅地分譲された敷地。 二方に接道しているので便利な反面、単線だったのでちょっと敷地が狭いかな? 複線だったら庭が作れただろう。 タウンハウスのような家が建ち並ぶ。 国道2号線と交わる。 踏切の跡は無かった。 しかし、国道2号線の北側にもちゃんと敷地が残る。 尼崎港駅方面を振り返る。 先へ進む。 やはり、タウンハウスのような家が建ち並ぶ。 このような家でも5千万円はするのだろうなぁ〜 夢のまた夢。 金楽寺駅跡付近。 その先も、このような細長い家が建ち並ぶ。 線路跡を標した細長い公園。 車止めのモニュメント。 天神橋緑地という公園だった。 その先は、ついこの間まで築堤があったのですが、全く無くなっていた。 この附近に福知山線支線の尼崎駅があった。 東海道本線の尼崎駅とは約300m離れていた。 この先は… 東海道本線を越え真っ直ぐ進み、福知山線に合流していた。 そして、その合流地点があの事故現場です。 よって、ここで廃線探訪は終えます。 あれから5年が経ちました。 未だに一文も変わらないHPのトップページ。 HPを見る人の方が暗い気持ちになります。 JR西日本は変わったのでしょうか? 「おくれ」表記が常態化している駅の案内表示板。 ダイヤ編成に無理があるのではと思ってしまう。 二度と起こしてはならないです。 |
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