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登城日 2011年 2月13日(日)曇 難易度 ☆ 場所 大阪市東淀川区柴島2−20 【柴島城の概要】 柴島城は十河一存が築いたのではないかと思われている。 この城が史上に現れるのは大きく分けて2つあり、江口の戦いの時と大坂夏の陣の時である。 江口の戦いでは三好政長派の細川晴賢がいる柴島城を三好長慶軍が大軍をもって攻め落城させている。 その後稲葉紀通が江口村、大道村、柴嶋村等の中島藩を領土とし、この柴島城も稲葉紀通の居城となり大坂夏の陣では大和方面軍に組み入れられたようであるが、紀通も福知山藩に移封され、いつごろから廃城になったのかは不明である。 (wikipediaより) 最寄駅は阪急千里線柴島駅です。 住宅地の中に柴島城の石碑が建っています。 付近は、河川改修、宅地化、浄水場建設で地形が大きく変わってしまって、石碑がこの付近に柴島城があったことを示すのみです。 この石碑の北に柴島神社が鎮座しています。 ご由緒によると、柴島神社の起源は、元柴島神社が鎮座していた場所が3mほど高所で、淀川が氾濫した際、柴の束に乗った小祠が漂着し、村人が産土神として祀ったことだと云う。 明治時代に淀川の河川改修により現在地へ移転した。 また、ここは柴島晒ゆかりの地とも。 説明板。 【柴島晒ゆかりの地】 江戸時代、大坂の周辺では綿花の栽培が盛んで、それを原料とした木綿業が発達していました。 柴島一帯では、淀川の流れを利用して木綿を洗い、それを干して乾燥させ、陽にあてることで白く加工するという、晒業が営まれていました。 はじまりは文禄3年(1594)にさかのぼるともいわれています。 『摂津名所図会大成』という書物には、淀川の堤防上に白く敷き詰められた木綿が、まるで雪が降り積もったようで、たいへん美しかったと記されています。 明治の末には、年間800万反を生産し、大阪の主力産業のひとつでしたが、淀川の改修工事や柴島浄水場の建設などの影響もあり、むかしからの晒業はおとろえてしまいました。 大阪市教育委員会 また、神社脇の公園は仏教学者辻善之助によって寄贈されたとも。
さて、こちらは明治時代初期に作られた『東摂城址図誌』の柴島城の項。 これによると、柴島城は柴島神社の西にあったと云う。 では、その地はどこか? 現在の柴島神社は、明治時代に淀川の河川改修で北へ約600m移転したとのこと。 すると、南へ約600m行くとだいたいこの辺かな。 またまた、頭上をジェット機が通り過ぎて行きます。 対岸には榎並城があったと云う。 遠くに生駒山が見えました。 さて、ここが柴島神社の舊地とすると、その西にある柴島中学校付近が柴島城のあった所となります。 柴島城跡に建つ柴島中学校。 柴島城を示すものは何もありませんが、若干微高地のような… 付近にはこんなものが。 石垣跡かと思いました。 何も痕跡が無いのが残念でした。 |
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2011年08月27日
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