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(もどる) 中村駅跡から右にカーブしていく。 少し田んぼの中を真っ直ぐ。 また見所ポイントの鉄橋。 レンガ造りの橋台が残る。 振り返る。 ここから右へ急カーブ。 曲がった所に、 小斎藤ポケットパークがあり、 説明板がある。 説明板によると、このポケットパークの100m先に小斎藤駅があったと云う。 あともう一息。 さらに真っ直ぐ進む。 ここは右へ。 少し下っていき、 この辺りで道は左へ急カーブするが、 線路は富幕川を渡っていく。 鉄橋が一部残っています。 別角度。 橋台の跡も。 反対側も 橋台の跡に近づいてみる。 鉄橋を振り返る。 そして、渡った所に、 奥山駅があった。 かつての奥山駅。 現在は遠鉄バスの車庫になっている。 時刻は午後4時10分。 ようやく着きました。 せっかく奥山まで来たので、奥山半僧坊へ寄ってみる。 奥山の町は奥山駅の上にあります。 奥山半僧坊大権現。 正式名称は方広萬寿禅寺といいます。 あの豊臣家滅亡の原因となった方広寺と同名の寺です。 所在地 浜松市北区引佐町奥山1577-1 山号 深奥山 宗派 臨済宗方広寺派 本尊 釈迦如来 創建 建徳2年(1371) 開基 奥山朝藤 開山 無文元選(後醍醐天皇の皇子) 境内全図。 【臨済宗大本山 方廣寺】 方広寺は末寺170ヵ寺を擁する臨済宗方広寺派の大本山で、井伊家の一族・奥山六郎次郎朝藤(是榮居士)が後醍醐天皇の皇子、無文元選禅師を開山と仰ぎ、建徳2年(1371)に建立した寺。 寺名を深奥山方廣寺というのは、開山禅師が悟後の修行をされた中国の天台山にこの地形が似ていたので、そう付けられたもの。 開山さまご在世のころは常に五百人の雲柄(修行僧)が参禅弁道していたと寺史に誌されており、妙心寺第四代の長老・日峯宗舜禅師もここで開山さまについて修行の末に見性(最初の悟り)したと記録をとどめている。 境内にまつる五百羅漢はその姿を象徴したもの。 開山禅師が親王さま(幼名満良親王)だけに、境内の堂塔、佛具のすべては六百年来”16の菊のご紋”に映え、光格天皇から”大慈普應禅師”明治天皇から”昭鑑国師”今上天皇から”圓明大師”とそれぞれ勅謚され、また孝明天皇から住持職出世、紫衣寺格の稱も恩賜されているが、それは衆生を教化されただけではなく、寺中に癩病院を建て世人を救われた高徳のたまものといえよう。 昭和30年、当時の管長足利紫山猊下が奥山老人ホームを新設、経営されたのも開山さまの遺徳をつぐよすがといわれる。 鎮守の”半僧坊大権現”や”椎河龍王”はいずれも開山さまの遺徳にまつわる縁起によるもので、山門(正面朱塗りの樓門)の掲額は高松宮宣仁親王の御染筆。 当山の管長が”金糸菊花紋章入り”の袈裟を着用するのは、開山さま(皇子禅師)の後継者たる格式による。 なお、本堂にまつるご本尊の釈迦如来、文殊、普賢の二菩薩は水戸の黄門・徳川光圀卿の発願により修理されたと背面に誌されており、歴代皇室は勿論、豊臣徳川の両家からも尊崇された東海きっての名刹である。 黒門。 出世弁財天。 山門。 高松宮宣仁親王が書いた額。 裏は足利紫山老師が「古雲閣」と書いた額。 五百羅漢説明板。 表参道。 自分に似た顔の羅漢さんはいるかな? 寺なのに鳥居。 しかし、もう驚かなくなった。 椎河龍王堂。 説明板。 三重塔。 別名「倒産よけの塔」。 七尊菩薩堂。 国指定重要文化財。 説明板。 境内に到着。 手水舎で身を清める。 半僧坊真殿へ。 半僧坊大権現説明板。 立派な龍の彫刻。 戻って、開山堂勅使門。 開山堂勅使門説明板。 方廣寺垣。 鐘楼。 大本堂。 本堂説明板。 大庫院。 焼け残った半僧杉。 最後に御朱印。 バスに乗って奥山を後にしました。 のべ3日もかかった遠州鉄道奥山線。 遠州の魅力たっぷりの沿線でした。 廃線が惜しまれるなぁ〜 |
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2011年09月18日
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