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登城日 2011年10月 8日(土)晴 難易度 ☆ 場所 福井県越前市府中1丁目13-7 【越前府中城跡】 初代加賀藩主前田利家(犬千代・又左衛門)は、織田信長の越前一向一揆平定後の天正3年(1575)秋、佐々成政、不破光治と共に各々越前府中領10万石の土地を均分し与えられた。 この3名を府中三人衆という。 初めて大名に出世した利家は、ここ越前府中城に居を構えた。 この地の東には日野川が流れ天然の堀の役目を果たし、平城を築くには格好の場所であった。 利家は天正9年(1581)10月に能登一国の太守として七尾に転封されるまでの約6年間をこの越前府中城でまつや子供たちと暮らした。 また加賀藩三代藩主前田利常は、まつの侍女であった高木村(現武生市高木町)上木新兵衛の娘千代が後の文禄の役(1592)の際に肥前名護屋で利家の側室に迎えられ設けた子供と伝えられる。 最寄駅はJR北陸本線武生駅です。 駅前にある越前市役所。 ここが越前府中城の本丸跡です。 遺構は破壊されているが、玄関前に碑が建っています。 【越府城址】 藩政時代府中邑主本多氏の館址である。 往時の邸地は約8,000坪で東邊と北邊を堀で囲みその東一帯に長さ280余間の外堀があり館は南面し、大手門が馬場に通じていた。 城の起源は文明の頃越前国守護朝倉氏の府中奉行所の構築に創まると云われ天正年間前田利家が城濠を修築拡張した。 前田氏移封の後に丹羽・木村・堀尾の諸氏が相次いで在城したが慶長6年本多富正が居館を定めてから維新廃藩に至るまで本多氏が歴代在城した。 明治5年城址に進脩小学校が建てられ後に武生東小学校と改称した。 輓近市街の発達と学童増加のため中北府町へ移転すると共に市庁舎が建設された。 創学以来14年である。 隣には本多富正公顕彰碑。 これでは府中城のことが良く解らないので南下し越前市武生公会堂記念館へ。 ここが事実上の歴史資料館。 越前府中をめぐる戦国武将相関図。 府中城古図もある。 ちょうど古地図展もやっていました。 それによると、越前市武生公会堂記念館付近に大手口があり、南面の道路の曲がりは府中城の名残だろう。 また越前市役所の西、国府1丁目の交差点にも同じような所があった。 越前市武生公会堂記念館から西へ少し歩くと正覚寺がある。 ここの山門は府中城の表門を移築したもの。 説明板。 屋根瓦が丸岡城と同じく芴谷石で葺かれている。 正覚寺説明板。 【正覚寺】 南北朝期、当時の越前守護職斯波高経は新善光寺城を築きこの地を統治するも、新田義貞との戦いにより町は焼け城も陥落した。 その後貞治5年(1366)この城跡に良如上人によって建立された浄土宗の寺院が当寺である。 城跡の名残が境内の北・西側の土塁や濠に見られる。 また山門は江戸期の領主本多家の居城の門をここへ移築したもので屋根が芴谷石で作られているのが特徴。 堂宇は慶安・宝暦・嘉永の3回火災に遭い現在の本堂は安政元年(1854)の建造である。 また墓地の中で一際目立つ屋根付きの墓には初代領主本多富正の養子福井初代藩主結城秀康の四男吉松丸が葬られている。 本堂。 何と、府中城の隣には新善光寺城があったと云う。 境内西側。 失礼しま〰す。 墓地の中に土塁が僅かに残存。 境内北側の土塁。 土塁上に説明板が建つ。 説明板。 【新善光寺城】 南北朝の動乱期、越前国守護斯波高経は新善光寺跡に新善光寺城を築城し、南朝方に備えた。 延元元年(1336)、南朝方の杣山城(南条城)主瓜生生保の軍勢により落城したが、すぐ奪回した。 さらに延元3年、金ヶ崎城(敦賀市)の落城で杣山城に逃れていた新田義貞等は勢いを盛り返し、高経の軍勢と日野川で激戦を交えた。 この戦いで府中(武生)の町は焼け、高経は敗走し新善光寺城は義貞の手に落ちてしまった。 義貞が新田塚で戦死後、南朝方の勢力は衰え、義貞の弟脇屋義助は美濃へ敗走した。 貞治5年(1366)浄土宗の良如により、この城跡に正覚寺が創建され、現在にいたっている。 現在は、境内北部の駐車場に沿う東西と境内西部の墓地内に南北に、僅かに盛り上がった土塁の跡を留めるのみであるが、正徳元年(1711)の府中図によれば、寺域は、東西九十間南北七十六間で、土塁の外に堀が巡らされていた。 越前市教育委員会 土塁を側面から見る。 北側の窪地は濠跡だろう。 今は善光寺も無いが通りの名に残る。 さらにもう一つ。 この善光寺通りの南のタンス通り。 旧北国街道と云う。 その南の寺院街にある龍門寺。 ここに龍門寺城があったと云う。 山門脇に碑が建つ。 説明板。 【龍門寺】 龍門寺の開創は、永仁・正安(1293〜1301)の頃禅僧悦崇禅によって創建されたと伝えられている曹洞宗のお寺である。 ご本尊は、釈迦如来で織田信長の武将冨田長将が、天正元年(1573)の朝倉攻め、同3年の一向一揆征討の際に、ここに城を築いて龍門寺城として戦の指揮をした。 その後本多富正が府中城をつくるまで城として使われ、城の跡の土塁が現在まで残っている。 特に南部の窪地は堀跡で、現在は墓地として利用されているが江戸時代には、門前の北部一帯を「古城」、南部を「下の濠」と呼んでいたのも、この地が戦略上の要地として城を築かれた当時の名残りである。 また、天正11年(1583)4月、前田利家が在城の頃には賤ヶ岳戦いで敗れた柴田勝家を迎えたのもこの城である。 天正13年木村常陸介が若狭からこの城に移り、旧城の東南隅に龍門寺を復興した。 武生市 武生市観光協会 もう一つの説明板。
龍門寺城の南東隅に建つと云う本堂。 龍門って書いてあるのかな? 失礼しま〰す。 境内窪地の墓地が堀跡、写真では切れてしまったが右側に土塁跡が残る。 寺の外。 堀跡墓地の延長線上。 窪んでいる。 堀跡の道を北へ。 卍が辻。 説明板。 龍門寺城の人枡の名残と云う。 草茫々で解からなかった江美城の人枡は人数を数えるための施設だったのですね。 龍門寺を北から見る。 高台に位置しているのが解かる。 卍が辻の北、旧古城町にある文殊菩薩。 前田利家が龍門寺城に居城していた頃にまつが持っていた念持仏と云う。 説明板。 今度は龍門寺へ戻って南へ進む。 真照寺。 朝倉孝景が一乗谷に建立した寺院で朝倉家滅亡後にこの地に移転。 狭い境内ある大きな石は龍門寺城築城時に運んできたものとの説がある。 くの字坂。 平地なのにわざわざ坂を造られており、武生の七不思議とされる。 今度は西へ。 太子堂。 江戸末期に建立、聖徳太子を祀る。 国指定登録文化財。 その西、河濯川に架かる城ヶ堀橋。 龍門寺城の外堀の役目をしていたのかな? この橋は紫きぶ七橋の一つ。 紫式部が幼少の頃武生に居住していたことに因む。 府中城・新善光寺城・龍門寺城を後にしました。 |
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2011年10月22日
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