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登城日 1回目 2000年 9月15日(金)晴
2回目 2005年 9月 2日(金)晴
3回目 2011年10月 8日(土)晴
難易度 ☆
場所 福井県福井市中央1丁目21-17
【北ノ庄城】
<概要>
朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向一揆を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が、天正3年(1575)に自らの縄張りによって築城を開始する。
同11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、妻・市と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することになるが、その後も青木一矩が北ノ庄城に封じられたという記録が残っている。
1601年より柴田氏の北ノ庄城の跡地に、新たに結城氏によって北ノ庄城が築城されたため、現在では柴田氏の遺構を見ることは出来ない。
平成5年(1993)から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていない。
<構造>
城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用していたと推定されており、天守は7層(一説には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。
柴田時代の建築をしのばせる史料として、宣教師のルイス・フロイスが天正9年(1581)に北ノ庄を訪問したときの記録があるが、それによると「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した」とある。
この「石」とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石のことであり、現在発掘調査で見出された柴田時代の石垣は笏谷石であるし、北ノ庄城とほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって築城された丸岡城の天守も笏谷石製の石瓦で葺いている。
また、町の規模が安土の2倍ほどもあること、勝家によって足羽川に架橋された九十九橋についても言及がある。
次に、勝家を攻め滅ぼした羽柴秀吉が戦後間もない天正11年4月25日に毛利氏の重臣・小早川隆景に送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、天守が九重」であった旨の記述がある。
(wikipediaより)
最寄駅であるJR福井駅から徒歩6〜8分です。
福井の町を舞台にこんな武将や、
こんな武将たちが駈け抜けて行きました。
そして、もう一人。
今回の主役、柴田勝家です。
本丸の位置は特定出来ていないが、遺構が検出された場所に北ノ庄城址公園があり、柴田神社が鎮座している。
境内図。
柴田神社二の鳥居。
手水舎。
隣はお市の水。
説明板。
北ノ庄鎮守稲荷大明神。
柴田勝家が北ノ庄城築城の際、京都の伏見稲荷より勧請したもの。
その奥に三姉妹神社。
三姉妹とは、もちろんお市の方の娘、
茶々・初・江のこと。
この順番。
今、まさに人気絶頂。
拝殿でお参り。
奥に本殿。
絵馬。
御朱印。
社務所の脇に展示資料館がある。
北ノ庄城について、ちょっとした資料が掲示してある。
展示資料によると、境内には北ノ庄城の遺構と、
福井城の遺構が重なり合っているそうです。
北ノ庄城下推定復元図。
柴田神社拝殿脇の北ノ庄城石垣。
福井城築城に際し石垣上部は取り除かれ根石のみ残る。
展示資料館前の北ノ庄城堀跡。
解説板。
その南は福井城堀跡。
土居解説板。
柴田勝家の像の前は福井城日向門の遺構。
解説板。
門の礎石の位置が表示してある。
石垣。
石垣の西側。
窪みが北ノ庄城の堀跡とか。
解説板。
足羽川に架かっていた九十九橋。
柴田勝家が半石半木の橋にしたとか。
解説板。
北ノ庄城と福井城の遺構が重なって良く解らないが、この場所に北ノ庄城の天守閣が建っていたとか。
想像図。
以前はここまでだったが、大河ドラマ効果で何と天守閣が復元された。
じゃ〰ん!
別角度。
いいねぇ〜
側面。
正面。
城址碑と北ノ庄城天守閣。
城址碑は平山郁夫画伯揮毫。
平山郁夫氏は柴田勝家の子孫という。
この天守閣は柴田勝家・お市の方と命運を共にしてしまった。
展示資料館の奥に辞世の句がある。
勝家 … 夏の夜の 夢路はかなき あとの名を
雲井にあげよ 山時鳥(やまほととぎす)
お市 … さらぬだに うちぬるほども 夏の夜の
夢路をさそう 時鳥(ほととぎす)かな
柴田勝家、お市の方と三姉妹の居城、北ノ庄城を後にしました。
この天守閣は、平成23年8月から2年間展示とのこと。
急げ!
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