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登城日 2011年12月23日(金)晴 難易度 ☆ 場所 鹿児島県霧島市国分中央2丁目5番1号 【舞鶴城跡】 別名、国分御屋形跡(おやかたあと)、国分新城とも呼ばれている。 島津義久は、慶長9年(1604)富隈城から移居し、慶長16年79歳で死去するまで在城した。 後に義久の三女の亀寿姫(かめじゅひめ)が寛永7年(1630)するまでの20年間をこの城で過ごした。 その後、この城の隣接地に地頭館(じとうかん)がおかれ、清水・襲山(現在の重久)・敷根の各地頭館と並んで、国分郷の政治と警備の中心として幕末に至っている。 舞鶴城は山城の南麓に造営され、平時は軍事・行政が執行されるが、戦時になると、城山(隼人城)に立籠もるという方法がとられた。 築城の際、山麓一帯(現在の市街地)も城に合わせて区割りを行い、碁盤目のような整然とした町並みは現在の市街地の基盤となっている。 国分市 大隅国分寺跡から目と鼻の先にあります。 池之馬場通りを南東に進む。 霧島市立国分小学校のある所が舞鶴城跡です。 池之馬場通り沿いに堀と石垣が残っています。 舞鶴城のかつての様子。 整然とした町並みの城下町でした。 石垣を別角度で。 さらに進む。 アーチ型の石橋。 石橋から見た堀と石垣。 石橋の先にある朱門。 説明板。 【朱門】 国分市指定文化財 指定年月日 昭和51年2月1日 所在地 中央2丁目 所有者 国分市 舞鶴城内陣の門であったものを市内重久の細山田家の祖先が領主島津義久公より拝領したものと伝えられているが記録もなくはっきりとしたことは分らない。 昭和38年、細山田家から大隅国分寺跡に移転保存されたが、台風のため倒壊した。 昭和50年、国分市の市制20周年事業の一環として、朱門を修復し、ゆかりの舞鶴城に復元した。 国分市 朱門を裏から見る。
朱門の先に舞鶴城の屋形があったが、国分小学校の敷地なので中へは入れません。 覗いてみたところ、遺構は無いようだ。 朱門から石橋を見下ろす。 石垣はしばらく続き、 舞鶴城は国分小学校までで、国分高校の塀はお城っぽいが、ここは舞鶴城外で犬追馬場があった。 柵をめぐらした中に犬を放ち、馬上から矢を射る武芸が薩摩では盛んに行われたと云う。 かわいそう 犬追馬場から舞鶴城前へ戻る。 城址碑。 辞世の句。 島津義久公伊呂波歌。 「人のよき人のあしきをみては わが身をみがくべき鏡ともせよ」 (人のいいところ悪いところを見て、それを自分の心を磨く、自分の姿形を磨く鏡としなさい。) 島津義久のいろは歌については、隼人城にある霧島市立国分郷土館で。 いろは歌は、島津義久の祖父島津忠良(日新公)の方が有名だそうです。 舞鶴城を後にします。 周辺には島津義久関連の史跡があります。 説明板。 境内にあった島津義久の墓。 島津義久の遺体は鹿児島市の福昌寺に葬られましたが、その一部(抜歯といわれる)が祀られたものという。 一般的には、弟の島津義弘の方が有名だと思いましたが、今でも霧島市周辺では、島津と言ったら義久という感じでした。 最後に金剛寺跡から見た隼人城。 せっかく来たので、詰の城である隼人城へ登ることにします。 |
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2012年08月09日
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