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登城日 2011年12月18日(日)晴 難易度 ☆ 場所 和歌山県和歌山市太田2丁目3-7 和歌山城が出来る前、JR和歌山駅東側に太田城があった。 東口を出ると城主太田左近の像が立つ。 説明板。 太田左近は、天正13年(1585)全国制覇をもくろむ豊臣秀吉に対し、太田城に立てこもり、紀州の土豪を指揮して抵抗したという、一か月に及ぶ水攻めをうけた後、最期はみずからの命を賭して城中の子女の助命を願い城を開城したという。 中世紀州の在地土豪の気風を集約した人物といえるだろう。 「紀州続風土記」や「根来焼討太田責細記」による 太田城史跡顕彰保存会 和歌山駅の東側は区画整理されて城跡の面影が無い。 しかし、付近の地名は「太田」。 電柱をよくみると、「太田城」の表記も。 県道145号線。 太田城の南限。 中央分離帯に案内板が立つ。 行ってみる。 住宅地の中に来迎寺がある。 この辺りが太田城の本丸だとの説がある。 山門前の説明板。 【太田城跡】 ここ来迎寺は、岡山県高松城、埼玉県忍城とともに日本三大水攻めのひとつに数えられる戦国時代の太田城の本丸跡と伝えられる場所である。 城の範囲は、現在の来迎寺、玄通寺を中心に東西250m、南北200mで周囲に深い堀をめぐらし、東に大門をもっていたとされる。 天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州攻めに際し、太田党は 太田左近宗正を大将として、約5千人が太田城に立てこもり、 10万余人の秀吉軍に対して強く抵抗したため、秀吉軍は城を取り囲む総延長5〜6kmにも及ぶ堤を築き、水攻めをおこなった。 攻防1ヶ月、ついに左近ら中心人物50余人の首を差し出すことを条件に他の者が助命されたとされる。 ここから北東約50mには、戦いにより亡くなった者を葬った小山塚、北東約250mには太田城の大門があった場所とされる大門橋、北東約700mには水攻めの際に秀吉軍が築いた堤跡が残っている。 なお、西約1kmの市内橋向丁の大立寺の山門(和歌山市指定文化財)は、この太田城の大門を移したものと言われている。 山門から入る。 境内の様子。 毎年4月第3日曜日に太田城水攻め慰霊の法要が行われている。 太田城址碑。 隣りの玄通寺も本丸の旧地とか。 来迎寺の東側にある小山塚。 太田城水攻めにより戦死した首将51人の首を17級ずつ3ヶ所に分けて埋めたものの一つ。 元は太田538番地(現在の太田3丁目4の南側付近か)にあったが、昭和60年に区画整理で現在地へ移された。 この辺りかな。 ここから北へ真っ直ぐ進むと、 住宅の間に毘沙門天が鎮座。 参道を進む。 説明板。 太田城の守護神だったという。 旧大門川。 大門川に架かる大門橋。 この地に太田城の大門があったと云う。 大門は市内の大立寺に移築され現存。 説明板。 少し行ったこの辺りに夢の浮橋という石橋があったとか。 太田左近が戦闘の最中、この小橋が水に浮く夢を見て秀吉の水攻めを直観し、各城兵に覚悟を促したという。 素人目には、湾曲して流れる旧大門川の東側の方が城地に相応しいようにも見えた。 最後に、秀吉の水攻めの跡を訪ねます。 出水の堤防跡。 望遠レンズで。 道路側から。 大分崩れて低くなっている。 反対側は宅地化で跡形も無い。 土塁の延長線上を北西へ進むと民家の敷地内の高い土塁が現存。 土塁を見上げる。 民家の敷地分しか現存していないのが残念。 土塁の延長線上に建つきのくに信金。 その裏手から土塁と堀跡を見る。 土塁を側面から。 別角度。 南東を見ると、先程見た崩れた土塁が見えた。 この先にも昭和40年代まで土塁が残存していたそうですが、区画整理で崩され今は無い。 有名なわりに意外と残っていない太田城でした。 (おまけ) |
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2012年09月11日
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