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登城日 2014年 4月23日(水)晴 難易度 ☆ 場所 東京都品川区東大井3丁目13-1 JR大井町駅から南東の住宅街の中に梶原稲荷神社があります。 一の鳥居。 右の狛狐。 左の狛狐。 二の鳥居。 社殿裏のブロックに囲まれた一画は梶原塚で、梶原氏一族の墳墓とか。 右の狛狐。 左の狛狐。 三の鳥居。 社殿。 由来記。 【梶原塚稲荷祠 由来記】 今を距(へだ)たる772年前(建久3年)梶原兵三景時、征夷大将軍源頼朝の命を奉じて、武蔵国大井村鹿島谷に萬福寺を建立し、その境内に守護神として稲荷を勧請して梶原稲荷と尊称した。 元応元年10月(1319)、萬福寺は兵火により焼失し馬込村に移りたるに依り、焼け残りし稲荷祠は梶原屋敷内に奉遷されて、後、柴村来福寺に奉納され、その追福のため同寺へ松桜などを植え寄進した。 この梶原塚は、桓武天皇5代の裔、常陸少掾良茂より5代の孫、鎌倉権五郎景正の子孫梶原日向守、亦梶原助五郎一族を祀る古墳である。 従来、この稲荷祠は南浜川桜井源兵衛氏の所有なりしが、大正14年1月より地元、元芝、関ヶ原に居住する信仰者に管理を委任され、地元民の協力に依り社務所を建設し維持管理に当たって今日に至った。 梶原氏は鎌倉権五郎景正、梶原兵三景時、梶原源太景季と代々武勇の誉高く、子孫皆よく栄え、又、古来この地に火災、災難等無きは、梶原稲荷の御守護によるものなりと伝えられ、住民皆襟を正して尊敬し。 昭和38年浄財により大修理を加え、神徳をたたえて信者集い祭祀を厳修した。 昭和39年2月15日初午の日 梶原稲荷講 由来記が貰えるらしい。 見晴らし通りへ出る。 行ってみたが閉まっていました。 梶原稲荷神社の南に位置する来福寺へ。 神社からこの付近までが屋敷跡とか。 参道を登って行きます。 山門へ。 瓦に梶原氏の家紋。 振り返る。 高台に位置していることが解ります。 山門を潜る。 境内を見渡す。 参道南側の慈母水子観音像。 宝篋印塔。 右回りに3回巡拝して祈願して下さい。 雪中庵蓼太句碑と林浄因の碑。 弘法大師像。 境内南奥の阿波藍商人墓標群。 説明板。 本堂。 本堂前の天水桶。 ここにも梶原氏家紋。 参道を振り返る。 延命桜かな。 梶原の松。 境内の北側へ。 手水舎。 山王鳥居。 大聖歓喜天堂。 罰当たりな人がいるもんだなぁ。 土塁かと思った。 住宅街の奥に梶原稲荷神社がある。 餅つきが行われたのかな。 戻る。 近くに見晴らし通りがあるように、梶原稲荷神社はさらに高台に位置していることが解る。 境内を見渡す。 寺務所へ。 吐いておられました。 寺務所では境内を見ながらゆっくり休むことが出来ます。 聖天さまからのお裾分け。 最後に御朱印。 来福寺を後にする。 遺構は無いが伝承が残る梶原氏館でした。 (おまけ) 来福寺から見晴らし通りを挟んで西側付近の旧町名は大井関ヶ原町。 こんな所にも関ヶ原があったとは。 江戸時代には薩摩藩の屋敷があった。 (立会川沿いの関ヶ原公園に説明板があります。) 大井三ツ又交差点。 三ツ又地蔵尊が鎮座。 説明板。 【三ツ又地蔵尊縁起】 三ツ又地蔵尊は、十一面観世音菩薩であります。 その縁起は、遠く天平年間から正暦時代に至る、仏教伝来の初期にまで遡ります。 一条天皇御即位ののち3年、今から985年前に、大藺の里に大伽藍が建立され、智瓣上人により開山されました。 本尊の十一面観世音菩薩は木仏で、弘法大師御作と言い伝えられていますが、あるいは唐から伝来されたものとも言われます。 その後200有余年で保元・平治の乱が起こり、打ち続く治承・寿永の戦乱期を経て、明応年間に至る400年にわたる兵火により、大伽藍は焼失しました。 そして本尊、および境内仏であった石仏は、火災をまぬがれましたが、草茫々の原野と変った武蔵野の一角に埋没されてしまいました。 星移り物変って、後柏原天皇の文亀年間に至り、諸国行脚の僧梅巌がこの地に来て、地中に読経の声がするのを不思議に思い、土を掘って2仏を発掘しました。 それが鎧ヶ渕庚申塚の辺り、頼朝公納経塚の跡であります。 発掘された1躰は、戦乱で行方不明であった海賞山来福寺の本尊、弘法大師作、延命地蔵菩薩と判明し、これを再び迎えしてお祀りしました。 また他の1躰は、出土の地である納経塚のほとり、池上道の傍らの三ツ又道に祀られました。 それ以来、病災・難産の「身代り地蔵」として評判が高く、世人とくに童幼・婦女の信仰を集めております。 今や、霊験あらたかなお地蔵さまとして、諸方から参詣する人々は数多く、香華の絶える時がない有様です。 以上が三ツ又地蔵尊の縁起です。 昭和23年(戊子)正月 仏堂管理 来福寺 少し北に行った所に庚申堂。 説明板。 【庚申堂】 この庚申堂は昔庚申塚と呼ばれ、さらに古くは、右大将頼朝卿が、戦死諸兵供養の為に、写経を埋められたので、その当時は、納経塚といわれていた。 後柏原帝の文亀元年(480年前)梅巌というお坊さんが、この塚の傍らを通られると、土中より読経の聲をきかれて、仏躰を堀出された。 当時内乱で行方知れずであった、来福寺(東大井3丁目)の本尊延命地蔵尊であることがわかり、寺に迎えて再び安置された。 その為にこのご本尊は、別名経読地蔵尊といわれるようになった。 戦後地元有志の方々が、堂を建立された。 現在も来福寺所管の境外仏堂で、縁日は毎月1日・10日・20日。 尚毎年「かのえさる」の日に、庚申祭の修法をいたします。 昭和56年12月 所管寺院 来福寺 |
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2014年08月24日
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