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登城日 2016年 5月 1日(日)晴 難易度 ☆ 場所 東京都調布市深大寺元町5丁目31-10 最寄駅は京王線調布駅。
調布駅からは吉祥寺駅か三鷹駅行きのバスに乗って行きます。 歩いても行けます。 深大寺バス停下車。 左が深大寺境内。 右が深大寺城。 どちらへも向かわずに、まずは深大寺そばでしょう! と、思ったらすでに行列。 でも、この程度はまだ序の口なので、10分ほど並んで着席。 天もり。 モグモグ。 そばようかん。 モグモグ。 戸隠そばほどの感動は無かった。 調布市深大寺水車館。 この附近は豊富な湧き水を水源とする川が流れていたそうです。 バス停へ戻り、東へ進む。 この石垣は後世のもの。 神代植物公園水生植物園に入る。 この水生植物園の中に深大寺城がある。 シラン。 カキツバタ。 水生植物園から深大寺城を見る。 切岸を望遠で。 第一郭下の腰郭へ。 腰郭。 進む。 左を登って行く。 第一郭北虎口へ到着。 城址碑。 説明板。 櫓台前から第一郭を見渡す。 低い土塁がめぐる。 第一郭の南端。 第一郭南虎口。 北虎口へ戻る。 北虎口櫓台。 振り返る。 北虎口から出る。 土橋。 土橋から右側空堀を見る。 土橋から左側空堀を見る。 説明板。 第二郭北側。 そば畑になっている。 深大寺の方へ下りて行く。 この道は往時は無かったようです。 小さな川。 第二郭と第三郭の堀跡を進む。 深い堀。 堀跡の先は有名テニススクールになっている。 戻る。 正面は第二郭。 戻る。 戻る途中でもう一度堀跡を見る。 第二郭西虎口。 向こう側はテニスコートになっている。 西虎口から第一郭を見る。 南を見る。 第二郭西側の残存土塁。 堀跡。 先ほどの堀跡に比べ浅い。 第一郭虎口へ戻る。 空堀と土橋。 第一郭櫓台をめぐる空堀と土塁。 櫓台の先は森の中へ。 建物跡。 建物跡を石で表現。 第二郭南虎口。 土塁。 第二郭を見渡す。 フェンスの向こうは馬出し。 深大寺城の南側。 堀があったのかな? 第二郭と第三郭の南側の堀跡を登って行く。 堀跡。 第三郭へ。 第三郭南端。 調布市街を見下ろす。 この辺りに第三郭虎口があった。 虎口にあった土塁は宅地開発で無くなっている。 虎口跡に深大寺城跡の小さな駐車場があります。 第三郭堀跡を北へ進む。 第三郭堀跡北端。 右側が第三郭でテニスコートになっている。 外郭へ。 外郭南端。 竪堀跡? 外郭南下にある池上院。 深大寺の支院。 池上院の裏から登った所。 外郭西側空堀の道。 外郭西側を北へ。 外郭西側の空堀跡を下りた所が深大寺交差点。 バス停がある所で約1時間半で一周しました。 深大寺へ向かいます。 |
城
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登城日 2014年 5月17日(土)晴 難易度 ☆ 場所 東京都八王子市元八王子町3-2284 JR高尾駅北口から西東京バスに乗り、宮の前バス停下車。 ちょっと戻って、 宮の前交差点を東へ進んだ所に梶原八幡神社参道入り口の鳥居がある。 さらに戻って、新宮前橋交差点へ。 南側に重慶山慈根院妙観寺へ。 創建は応仁2年(1468)、開山は妙誉と伝えられる。 現在の本堂は昭和60年落慶。 笠地蔵。 妙観寺から北へ。 梶原八幡神社の鳥居が見えてきました。 一の鳥居。 社標の台石は、この東にある出羽山公園にあった出羽屋敷の庭石だったと云う。 参道を進む。 参道途中に梶原杉の切株。 建久2年(1191)に梶原景時が植えたと云う。 残念ながら、昭和47年(1972)に枯死してしまった。 参道をさらに進み梶原八幡神社境内へ。 参道を振り返る。 手水舎。 右の狛犬。 左の狛犬。 石燈籠。 芭蕉歌碑。 拝殿でお参り。 祭神は品陀和氣命。 西側に境内社。 右から、神明社、天神社、稲荷社、機神社、荒神社。 東側に由緒書。 【八幡神社の由緒】 当社は、康平6年(1063)8月、源頼義朝臣、鎌倉由比郷に石清水八幡宮の神を奉祀するに始まる。 後治承4年(1180)10月源頼朝公、大庭景義に命じてこれを小林郷松ヶ岡に遷す。 (今此処を鶴岡八幡宮と称す)。 建久2年(1191)4月宮殿の造営全く竣へ、正遷座の際、古神体を頼朝公家臣、梶原平三景時に賜ふ。 此の地は、八王子発祥の地、景時の所領ゆえ、同年6月此処に奉祀す。 降って寛正・文明の頃傷んだ社殿の造営修復す。 元亀3年(1572)北條氏照公、当地に八王子城(日本百名城選)を築き、居住する間社領若干を賜る。 越えて、天正19年(1591)11月将軍徳川家康公より社領十石(朱印)を賜り、後明治6年(1873)、郷社に列せられる。 尚、景時勧請時の棟札ありしも戦災の折残念ながら焼失す。 1、御祭神 應神天皇・比売命 御神体 甲冑馬上の木像 1、摂・末社 五社宮、榛名社、八坂社、日吉山王社 1、例祭日 4月第3日曜日 【「梶原杉」の由来】 当社参道には、梶原杉の大樹あり、景時が八幡宮を勧請した時植えたとされ、樹齢約800年、高さ30m余、目通り幹の周囲が12mあり、昭和3年都の天然記念物に指定され、都内随一の大杉と言われた。 当社御神木として尊崇保存してきたが、樹盛急に衰え、昭和47年4月愛惜の中伐採した。 現在切り株があり往時が偲ばれる。 本殿を見る。
本殿周りを東側から廻る。 ここにも末社群。 境内の裏山に居館があったらしい。 凹んでいる。 竪堀かな? 凹んでいるが、草木でちゃんと撮れなかった。 居館があった所は、中央自動車道建設時に削られてしまったとも。 昭和23年(1948)の航空写真。 見上げる。 それとも土塁かな。 舞殿脇に出た。 一周しました。 境内東側の梶原宮司宅で御朱印を貰う。 ご子孫のようです。 御朱印。 境内の東側には神宮寺だった慈根寺山西明寺があったが、明治初期の廃仏毀釈で廃寺になったと云う。 付近のバス停に名が残る。 (だいぶ北東に離れていますが…) 居館があったと云う裏へ行ってみる。 この辺りにあったのかな? 北側の谷は梶原谷と言われている。 行ってみる。 左は城山小学校への道。 一番高台っぽかった。 右へ。 城の腰川沿いの道を進む。 進むとホーメストタウン八王子に出る。 この住宅街の中の公園に「かじわらだにとちの木公園」や、 「かじわらだにけやき公園」がある。 それ以外で、この辺りが梶原谷と呼ばれていたことを示すものは見つけられませんでした。 バスに乗って帰ろうとしたが… 日に数本でちょうど来ない時間帯だった 仕方がないので、歩いて戻る。 遠くに八王子城が見えた。 八王子城跡入り口まで戻って来ました。 最後に御霊谷へ向かいます。 御霊神社。 鳥居。 境内の様子。 社殿。 梶原氏の祖先神の鎌倉権五郎影政を祀る。 隣りに稲荷神社。 社殿裏に小さな祠が2つ。 一つには北条氏の家紋が刻まれています。 この辺りは梶原景時の所領の一つだったそうです。 八王子城が出来る前にあった梶原氏館でした。 |
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登城日 2014年 4月23日(水)晴 難易度 ☆ 場所 東京都品川区東大井3丁目13-1 JR大井町駅から南東の住宅街の中に梶原稲荷神社があります。 一の鳥居。 右の狛狐。 左の狛狐。 二の鳥居。 社殿裏のブロックに囲まれた一画は梶原塚で、梶原氏一族の墳墓とか。 右の狛狐。 左の狛狐。 三の鳥居。 社殿。 由来記。 【梶原塚稲荷祠 由来記】 今を距(へだ)たる772年前(建久3年)梶原兵三景時、征夷大将軍源頼朝の命を奉じて、武蔵国大井村鹿島谷に萬福寺を建立し、その境内に守護神として稲荷を勧請して梶原稲荷と尊称した。 元応元年10月(1319)、萬福寺は兵火により焼失し馬込村に移りたるに依り、焼け残りし稲荷祠は梶原屋敷内に奉遷されて、後、柴村来福寺に奉納され、その追福のため同寺へ松桜などを植え寄進した。 この梶原塚は、桓武天皇5代の裔、常陸少掾良茂より5代の孫、鎌倉権五郎景正の子孫梶原日向守、亦梶原助五郎一族を祀る古墳である。 従来、この稲荷祠は南浜川桜井源兵衛氏の所有なりしが、大正14年1月より地元、元芝、関ヶ原に居住する信仰者に管理を委任され、地元民の協力に依り社務所を建設し維持管理に当たって今日に至った。 梶原氏は鎌倉権五郎景正、梶原兵三景時、梶原源太景季と代々武勇の誉高く、子孫皆よく栄え、又、古来この地に火災、災難等無きは、梶原稲荷の御守護によるものなりと伝えられ、住民皆襟を正して尊敬し。 昭和38年浄財により大修理を加え、神徳をたたえて信者集い祭祀を厳修した。 昭和39年2月15日初午の日 梶原稲荷講 由来記が貰えるらしい。 見晴らし通りへ出る。 行ってみたが閉まっていました。 梶原稲荷神社の南に位置する来福寺へ。 神社からこの付近までが屋敷跡とか。 参道を登って行きます。 山門へ。 瓦に梶原氏の家紋。 振り返る。 高台に位置していることが解ります。 山門を潜る。 境内を見渡す。 参道南側の慈母水子観音像。 宝篋印塔。 右回りに3回巡拝して祈願して下さい。 雪中庵蓼太句碑と林浄因の碑。 弘法大師像。 境内南奥の阿波藍商人墓標群。 説明板。 本堂。 本堂前の天水桶。 ここにも梶原氏家紋。 参道を振り返る。 延命桜かな。 梶原の松。 境内の北側へ。 手水舎。 山王鳥居。 大聖歓喜天堂。 罰当たりな人がいるもんだなぁ。 土塁かと思った。 住宅街の奥に梶原稲荷神社がある。 餅つきが行われたのかな。 戻る。 近くに見晴らし通りがあるように、梶原稲荷神社はさらに高台に位置していることが解る。 境内を見渡す。 寺務所へ。 吐いておられました。 寺務所では境内を見ながらゆっくり休むことが出来ます。 聖天さまからのお裾分け。 最後に御朱印。 来福寺を後にする。 遺構は無いが伝承が残る梶原氏館でした。 (おまけ) 来福寺から見晴らし通りを挟んで西側付近の旧町名は大井関ヶ原町。 こんな所にも関ヶ原があったとは。 江戸時代には薩摩藩の屋敷があった。 (立会川沿いの関ヶ原公園に説明板があります。) 大井三ツ又交差点。 三ツ又地蔵尊が鎮座。 説明板。 【三ツ又地蔵尊縁起】 三ツ又地蔵尊は、十一面観世音菩薩であります。 その縁起は、遠く天平年間から正暦時代に至る、仏教伝来の初期にまで遡ります。 一条天皇御即位ののち3年、今から985年前に、大藺の里に大伽藍が建立され、智瓣上人により開山されました。 本尊の十一面観世音菩薩は木仏で、弘法大師御作と言い伝えられていますが、あるいは唐から伝来されたものとも言われます。 その後200有余年で保元・平治の乱が起こり、打ち続く治承・寿永の戦乱期を経て、明応年間に至る400年にわたる兵火により、大伽藍は焼失しました。 そして本尊、および境内仏であった石仏は、火災をまぬがれましたが、草茫々の原野と変った武蔵野の一角に埋没されてしまいました。 星移り物変って、後柏原天皇の文亀年間に至り、諸国行脚の僧梅巌がこの地に来て、地中に読経の声がするのを不思議に思い、土を掘って2仏を発掘しました。 それが鎧ヶ渕庚申塚の辺り、頼朝公納経塚の跡であります。 発掘された1躰は、戦乱で行方不明であった海賞山来福寺の本尊、弘法大師作、延命地蔵菩薩と判明し、これを再び迎えしてお祀りしました。 また他の1躰は、出土の地である納経塚のほとり、池上道の傍らの三ツ又道に祀られました。 それ以来、病災・難産の「身代り地蔵」として評判が高く、世人とくに童幼・婦女の信仰を集めております。 今や、霊験あらたかなお地蔵さまとして、諸方から参詣する人々は数多く、香華の絶える時がない有様です。 以上が三ツ又地蔵尊の縁起です。 昭和23年(戊子)正月 仏堂管理 来福寺 少し北に行った所に庚申堂。 説明板。 【庚申堂】 この庚申堂は昔庚申塚と呼ばれ、さらに古くは、右大将頼朝卿が、戦死諸兵供養の為に、写経を埋められたので、その当時は、納経塚といわれていた。 後柏原帝の文亀元年(480年前)梅巌というお坊さんが、この塚の傍らを通られると、土中より読経の聲をきかれて、仏躰を堀出された。 当時内乱で行方知れずであった、来福寺(東大井3丁目)の本尊延命地蔵尊であることがわかり、寺に迎えて再び安置された。 その為にこのご本尊は、別名経読地蔵尊といわれるようになった。 戦後地元有志の方々が、堂を建立された。 現在も来福寺所管の境外仏堂で、縁日は毎月1日・10日・20日。 尚毎年「かのえさる」の日に、庚申祭の修法をいたします。 昭和56年12月 所管寺院 来福寺 |
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登城日 2013年12月29日(日)晴 難易度 ☆ 場所 静岡市清水区吉川 新静岡駅から静鉄に乗り狐ヶ崎駅下車。
まずは、駅の北側にある吉川八幡神社へ向かう。 駅名の狐ヶ崎は、鎌倉御家人の吉香友兼が梶原景時の三男景茂を討ち取った所と云う。 狐ヶ崎は駿河区曲金の説もある。 討ち取った際に使われたと云う刀は「狐ヶ崎」と名付けられ、吉川氏の家宝として代々受け継がれ、現在は山口県岩国市の吉川史料館に保管。 国宝に指定されている。 駅前通りを進む。 駅の南側に道は旧東海道。 説明板。 渡った所に上原堤「宗旦池」。 説明板。 CMソングは北原白秋が作詞した「ちゃっきり節」。 説明板。 静鉄と東海道本線に架かる谷津沢川水路橋を渡る。 歩道の下に川が流れている珍しい橋。 説明板。 谷津沢川水路橋から吉川八幡神社を見る。 東海道本線敷設の為、境内の2/3を失っている。 吉川八幡神社の境内。 由緒書。 吉川氏館の北西に祀ってあったものを現在地に遷したものと云う。 参勤交代の際、岩国藩主吉川氏は必ず参詣していた。 脇の上屋。 上屋に横たわっている旧鳥居。 寛政元年(1789)周防国岩国藩主吉川経倫が奉納したもの。 柱には吉川氏と梶原氏との戦いや承久の乱の功績、村民への感謝、神のご加護への熱い思いが彫られている。 説明板。 拝殿へ。 拝殿。 拝殿内に注目! 東京馬込萬福寺所蔵、駿河国吉川村絵図。 安養寺の南にある瀧五左ヱ門の屋敷が吉川氏館っぽい。 福寿院は、静岡県警清水分庁舎の西にある福聚院のことではないだろうか? 吉川八幡神社の北、新幹線の高架の南に土塁っぽいものが見える。 ここが吉川氏館っぽい。 吉川八幡神社の故地には古宮が残る。 吉川氏館へ向かう。 吉川八幡神社から北へ進む。 瀧五左ヱ門の屋敷はこの辺りかな? この水路は堀跡かな? 個人的にはこの辺りに吉川氏館があったと思います。 吉川八幡神社にあった吉川氏館へ向かう。 国道1号線の北側に位置する小糸製作所静岡工場。 この辺りの地名は吉川。 小糸製作所の西辺を進むと吉川氏墳墓があります。 吉川氏墳墓。 説明板。 【吉川氏発祥の旧跡碑】 清水市吉川を中心とする一帯の地方は旧岩国藩主吉川氏の初代経義より友兼朝経経光経高に至る五代128年間の旧跡地である 昭和33年6月 岩国市史編纂所長 文学博士 瀬川秀雄誌 吉川氏墳墓の西にある若宮八幡宮。 吉川氏の守護神。 吉川氏墳墓の北にある小さな橋。 安養寺橋と書いてある。 この辺りに吉川氏の菩提寺だった安養寺があったようだ。 安養寺の境内に巴川が流入してしまったらしい。 東へ進むと能島八幡宮。 その南、旧巴川を渡ってすぐ西側の駐車場の奥に吉川八幡神社の故地と云う古宮があります。 ということは、ここが吉川氏館の西北隅ということだろうか? 東へ進む。 旧巴川に接して説明板が建っています。 【吉川氏館跡】 吉川館は古宮を西北隅とし東西約180m(100間)南北約240m(130間)ぐらいの長方形と伝えられ現在の上の段がこれに当る当方の川流が八津沢川の名残ではなかろうか? この時代の東海道は今の北街道であり、是より能島の地を通って巴川は、綱を手繰る繰舟を用いて渡ったと考えられ能島の八幡社を繰崎八幡と称しこの所を舟越と言った。 尚、吉川の小字に繰崎舟戸の地名がある。 昔は有渡へ渡る重要な幹線であったと考えられる。 この所は初代経義が寿永2年源頼朝より賜り館を築き以後北朝年号康永4年、南朝年号興国5年(1345)まで約160年間居住したと考えられている。 (参考) 寿永2年は1183年で木曽義仲京都に入る年 (参考文献) 有度郷土誌旧有度村 静岡県の歴史中世編静岡新聞社による。 昭和59年1月 有度まちづくり推進委員会 有度公民館歴史クラブ 図によると、この辺りが東北隅。 この川が吉川氏館の東を流れていたと云う旧八津沢川。 館跡の様子。 南に行くにしたがい少しづつ高くなる傾斜地。 図によると、この辺りが南端。 南西隅付近から北を見る。 北へ進んで一周しました。 駐車場の奥に古宮があります。 梶原一族を討ち世に出た吉川氏の故地でした。 |
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登城日 2014年 3月21日(金)晴 難易度 ☆ 場所 静岡市葵区瀬名2丁目 JR静岡駅前からしずてつジャストライン竜爪山線に乗り瀬名リンク西奈バス停下車。 バス停前にある瀬名リンク西奈。 生涯学習センターと図書館の複合施設。 西奈は「にしな」と呼んでいるが、古来は「せな」と呼んだらしい。 瀬名リンク西奈の西側の集落付近に瀬名館があったと云う。 (静岡市のHPより。転載不可。) 瀬名館跡の様子。 特に遺構は見られなかった。 瀬名館の東側に位置する光鏡院へ。 由緒書。 【光鏡院(清涼山光鏡院)】 光鏡院は、今川陸奥守一秀の菩提寺で、長亨2年(1488)僧・恵雲が開山した曹洞宗の寺ある。 文明8年(1476)今川6代当主義忠が不慮の死をとげ、今川一族の間で竜王丸(今川氏親)派と小鹿範満派に分れて争いが起ると、一秀は竜王丸を補佐するため遠江から瀬名に移り住み、瀬名氏と改名した。 以来、一秀は瀬名一族の祖となった。 通称”瀬名館”といわれる字大屋敷は、瀬名集落のほぼ中央にあって、瀬名一秀を祖として氏貞、氏俊、氏詮4代の居館跡であったことが「今川記」に記されている。 今日、遺構は認められないが、今川直系を補佐する一族として瀬名氏の勢力は大きかった。 瀬名砦の所在は不明であるが、光鏡院の裏山と考えられ、永録11年(1568)武田信玄の駿河侵攻の際に落城したことが記録にみられる。 光鏡院をはさんで、2代今川氏貞の菩提寺である「松寿院」や3代今川氏俊婦人の菩提寺である「竜泉院」の一体は、瀬名一族発祥の地であるので、今川一族研究のうえからも、きわめて意義深い土地柄である。 昭和58年10月 静岡市 山門。 左右に仁王像。 右側。 左側。 別名「智慧門」を潜る。 山号は清涼山。 山門裏側には風神雷神像。 風神。 雷神。 境内を進む。 本堂へ。 本堂。 境内にある瀬名一秀供養塔。 裏山に瀬名砦があったと云う。 登って行くとミカン畑。 瀬名砦跡を見下ろす。 やはり瀬名砦は解らなかった。 静岡市HPの図が無ければまったく想像もつかない瀬名館でした。 (おまけ) 3月なのに満開の桜の木。
桜の花。 静岡の気候は温暖ですね〰 |



