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登城日 2012年 9月16日(日)晴 難易度 ☆☆ 場所 滋賀県蒲生郡日野町音羽 清源寺からさらに東へ進む。 日野川の向こう側に音羽城が見えてくる。 御殿橋を渡る。 日野川が天然の堀の役目。 音羽城全景。 こんな感じの城域。 城域の中の曲輪の配置。 付近に池が三つ。 水が豊富だったんだろう。 説明板。 【史蹟 音羽城跡】 室町時代の末、現在の日野町小谷にその居を構えていた蒲生氏は、音羽のこの地に城を築いた。 蒲生秀綱の時、あるいは貞秀の時と伝えられている。 この山岳城は、日野川を前に、宝殿嶽を背後にした要害の地にあって名城として知られていた。 明応5年(1496)と文亀2年(1502)、敵を迎え撃って大勝をおさめているが、大永2年(1522)から翌3年にかけての蒲生家同族間の争いには、若き当主秀紀を中心とする500の兵が8ヶ月に及ぶ籠城をするという悲惨な戦いの末、大永3年3月開城し、直ちに寄せ手蒲生高郷の援軍佐々木勢によって城は取り壊され、以後は日野川ダムのほとりの中野(日野)城へと城は移りここは廃城となった。 出曲輪(城の外囲い)跡地からは、音羽付近を一望に収めることができ、その下に砦を築いて攻撃を防いだ。 南丸跡地近くに城中の井戸や抜穴があったが、このあたりは戦後の開拓で原形を留めていない。 音羽城に関する蒲生家の系譜は、次のとおりである。 −秀綱−貞秀−秀行−秀紀 L高郷−定秀−(定秀の孫が会津若松92万7千石の大名になった蒲生氏郷である。) 西側の切岸。 出曲輪東の砦付近を見上げる。 この辺りが大手口らしい。 現在の登城口。 土塁かな。 先は空堀かな。 ここで直角に曲がって、 登っていく。 西側には武家屋敷跡の平坦地が見える。 史蹟音羽城趾の碑。 また直角に曲がって本丸。 本丸にある音羽城城跡の記。 説明板。 現在、本丸、二の丸、南丸はくっついてしまい、一つの曲輪のように見えるが、トリムのある辺りが二の丸だったようだ。 曲輪の中央に詳細な説明板。 【音羽城跡】大字音羽 音羽は、近江と伊勢を結ぶ山越えの伊勢路の一つ「仁正寺越え」(大河原越えともいう)が通る交通の要衝でした。 その地に築かれた音羽城は、日野川を眼下に望む急峻な自然地形を生かした堅牢な山城で、応仁の乱(1467〜77)頃に蒲生貞秀により築かれたと伝えられています。 貞秀は蒲生家中興の祖とされ、戦国大名蒲生氏郷の高祖父にあたります。 史料では「蒲生館」「蒲生の城」などと表記され、中野城とともに蒲生氏の居城として知られています。 明応5年(1496)や文亀3年(1503)の合戦では、地の利を生かして敵軍を撃破し、難攻不落の名城とうたわれました。 貞秀が死去すると、秀紀(貞秀の孫)と高郷(秀紀の叔父)による蒲生宗家継承の内紛が勃発し、大永2年(1522)、高郷は秀紀のこもる音羽城を2万と伝えられる大軍で包囲しました。 籠城8か月後の翌年3月、多数の病死者を出した秀紀はついに降伏し、音羽城は廃城となり取り壊されてしまいました。 この後、蒲生氏の居城は中野城となり、秀紀は鎌掛城へ移りました。 近世の絵図などにより、本丸・二の丸・南丸・庭園などがあったとされていますが、明治時代以降たび重なる改変により、旧状は大きく損なわれてしまいました。 例えば、主郭北から東にかけてみえる堀状に見える窪みは、大正時代に行われた日渓溜築堤工事に伴う土砂採集用トロッコ道の跡だといわれています。 現在は公園として整備されており、一部の曲輪・土塁・堀切などのほか、城主秀紀の奥方が入水自決したと伝わる井戸跡などが残っています。 音羽城跡図。
南丸の土手を西から見る。 この辺りに庭園があったらしい。 東側を見る。 土手の裏に井戸跡。 説明板。 土手の南側にも平坦地。 東側を覗く。 見事な空堀! と、思うが帯曲輪跡を大正時代にトロッコ道として掘った跡とか。 やはり見事な空堀に見えるなぁ。 南側は本当の空堀跡。 対岸の伝出曲輪跡を見る。 行ってみる。 (つづく) |
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