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場所 北海道函館市大町11

新島襄が国禁を犯してアメリカへ密航を企てた場所です。

詳しい地図で見る

函館駅の観光案内所で貰ったマップ。
表面。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/dd/61/kanezane3/folder/463061/img_463061_10947979_61?1381934167_
裏面。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/dd/61/kanezane3/folder/463061/img_463061_10947979_62?1381934167_
平成25年(2013)大河ドラマ「八重の桜」で話題の新島襄の足跡をマップ片手に訪ねてみました。
JR函館駅前から路面電車に乗って末広町下車。
西波止場のそばに建つブロンズ像。
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最初解らずに通り過ぎてしまったが、元治元年(1864)箱館から密出国すべく1艘の小舟に乗り込んで外国船に向かう新島襄の姿を再現している。
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足元の碑に「新島襄」と書いてあった。
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海岸沿いを進むと東浜桟橋。
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明治維新後、北海道に渡る人はこの桟橋から第一歩を踏み出した。
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脇に「北海道第一歩の地」の碑が建つ。
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説明板。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/dd/61/kanezane3/folder/463061/img_463061_10947979_63?1381935673_
さらに海岸沿いを進む。
新島襄が函館にやって来た元治元年当時、この通りの右側が海岸線で、左側は埋立地の島だった。
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説明板。
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【西部ウォーターフロント大町地区親水プロムナード 外国人居留地・新島襄海外渡航の地】

この地区は、函館港の湾奥部として静穏な水域であることから、古くから港として利用がされた地域です。
対岸の緑の島へ渡る新島橋の左側は明治8年(1875)民間造船所用地として埋立てられ、右側は外国人居留地として幕府直轄で安政6年(1859)から万延元年(1860)にかけて2000坪の規模で海面を埋立て、築島としたもので、周囲には石積が築かれ、陸地との間には橋が架けられていました。
当時、函館の居留外国人は市中の様々な箇所に居住していましたが、その中でこの外国人居留地は、外国人だけに提供された唯一の場所です。
元治元年(1864)には、外国人居留地の波止場から同志社の創始者である新島襄が海外渡航に出発しました。
また、この時新島の渡航を助けた福士成豊は、当時、外国人居留地に居住していた英国人の商会で働いていました。
新島が米国商船に乗り込むため、福士のあやつる小舟で出発した波止場には、昭和29年(1954)に「新島襄海外渡航の地碑」がたてられています。
平成6年(1994)から平成8年(1996)にかけて、函館市が「港湾改修事業」および「ふれあいマイポート事業」により、老朽化した石積式の護岸、物揚場、斜路を再生し、石張舗装などの改良工事を行い、ウォーターフロント散策路(延長400m)として広く利用されるよう整備したものです。

元治元年(1860)の外国人居留地周辺地図。
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重ね図。
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外国人居留地跡を進む。
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突き当たりに「新島襄海外渡航の地碑」。
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説明板。
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【新島襄海外渡航の地碑】

新島襄は、新知識を海外に求め、吉田松陰の海外渡航の失敗を考慮し、渡航地を箱館に選びました。
元治元年(1864)江戸からきて、ニコライ主教(ハリストス正教会2代主教)に、日本語を教えたりなどして脱出の機会を待っていましたが、同年6月14日(新暦7月17日)深夜、福士成豊(日本最初の函館測候所開設者)の助力により、この地から国禁を犯して海外渡航に成功しました。
上海経由で渡米した新島襄は、修学10年の後、明治7年(1874)帰国し、翌8年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立しました。
この碑にある「男児志を決して千里を馳す 自ら辛苦をなめてあに家を思わんや 却って笑う春風雨を吹くの夜 枕頭なお夢む故園の花」の漢詩は、新島襄の自作自筆によるもので、元治2年(1865)香港での作です。
渡航前の名前は新島七五三太(しめた)でしたが、航海中に船長から「ジョセフ」名をもらい、略して襄(ジョー)」の字をあてました。
明治23年(1890)48歳で没。

函館市

表には、元治2年(1865)香港で詠んだ漢詩。

「男児志を決して千里を馳す 自ら辛苦をなめてあに家を思わんや 却って笑う春風雨を吹くの夜 枕頭なお夢む故園の花」
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裏面は説明。
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新島襄は、天保14年2月12日江戸に生る。
元治元年7月17日函館より乗船し北米新英州に渡り、修学10年明治7年皈国。
8年同志社を創立。
23年1月23日没す、享年48。

昭和29年7月17日建立之
同志社 函館市

函館湾を見る。
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カモメ。
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緑の島との間に架かる橋は「新島橋」。
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新島橋の左側は民間造船所用地だった。
説明板。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/dd/61/kanezane3/folder/463061/img_463061_10947979_64?1382271407_
復元された石積護岸。
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外国人居留地の説明板の所へ戻る。
旧海岸線側のオシャレな喫茶店。
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店名は「JOE」。
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説明板。
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大町の方へ進む。
沖之口番所跡。
当時の海からの玄関口。
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箱館郵便役所跡の碑と沖之口番所跡説明板。
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説明板。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/dd/61/kanezane3/folder/463061/img_463061_10947979_65?1382272031_
海の方へ進むと、昭和63年(1988)に復元された箱館丸が展示されている。
箱館丸は、新島襄の脱国を手助けした福士卯之吉(成豊)とその実父続豊治が造った日本初の西洋式帆船だった。
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途中に旧旅籠町があった。
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この辺りの茶屋で、新島襄・澤辺琢磨・福士卯之吉らが酒を酌み交わしていたと云う。
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さらに登って行く。
旧ロシア領事館。
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突き当たりに山上大神宮。
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坂本龍馬のまたいとこで新島襄の友人である澤辺琢磨が神職を務めていた。
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坂を下りる。
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東本願寺函館別院船見支院の所を右折し元町方面へ。
ゴールの函館ハリストス正教会
澤辺琢磨が異教を広める司祭ニコライを叩き切ると息巻いて押しかけたが、ニコライの教えに心酔し、ニコライに日本語を教える代わりに、箱館にやって来た新島襄を司祭宿舎に下宿させたと云う。
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所要時間140分、距離4.7km、消費カロリー420kcal。
「新島襄海外渡航の地碑」を見るだけだったのに…
ふぅ〰

(おまけ)

ちょうど「新島襄と幕末の箱館」展をやっていたので、
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さらに市立函館博物館へ。
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中は撮影禁止なので、パンフレットの裏面で。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/dd/61/kanezane3/folder/463061/img_463061_10947979_66?1382275466_
大河ドラマ「八重の桜」終了までやってもよかったのでは。


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