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場所 京都市左京区鹿ケ谷若王子山町 同志社墓地です。 詳しい地図で見る 鹿ヶ谷通を南下すると、東側に「新島襄先生墓地登り口」に碑が建っています。 左折して東へ登って行きます。 若王子橋を渡る。 ここは哲学の道南端。 渡った所に「同志社創立者 新島襄先生墓所参道」の碑。 熊野若王子神社の前を右へ。 「後花園天皇御遺蹟之地」碑。 山城国分尼寺跡にも建てた西陣の三宅さんが建てた碑。 何の遺蹟なのかな? 矢印に沿って進む。 東方斎居址。 東方斎の居宅跡という意味だそうで、東方斎は明治時代初期の陸軍大尉荒尾精のこと。 ここから登り。 イノシシに気をつけて、柵の中に入る。 右へ。 お墓は山の上だそうです。 ふぅ 途中で石敷きが無くなる。 と、思ったらまた復活。 熊野若王子神社から約15分で同志社墓地に到着。 説明板。 【新島襄先生の墓碑】 同志社の創立者新島襄先生は、明治23年(1890)1月23日に神奈川県大磯で46才で天に召され、1月27日の葬儀のあと学生たちに担がれて此処に埋葬されました。 そして翌年1月、鞍馬産の自然石に、勝海舟翁の揮毫になる碑銘を刻んだ墓碑が建立されました。 それから90余年をへて、次第に墓碑の風化が進んだため、再建が協議されましたが、たまたま昭和61年(1986)6月不慮の事故によって倒壊しました。 そこで新島先生がアメリカ留学から帰国される際に「日本にキリスト教主義学校を」と 声涙倶に下る募金演説をされたゆかりの地であるヴァーモント州ラットランド産の花崗岩をもって昭和62年(1987)1月16日にこれを再建しました。 碑銘は元の墓碑から移し刻んだものです。 2004年4月 学校法人同志社 新島襄の墓。 ここで酒盛りをしていた同志社の学生が酔って抱き着いて倒してしまったとか。 まったく 新島八重の墓。 仲良く並んでいます。 新島襄の墓の隣には、宣教師ジェローム・デイヴィスの墓。 奥には、八重の兄である山本覚馬、八重の父母である権八と佐久、覚馬の娘である久栄の墓。 その他同志社の設立の貢献した人々が眠っている。 山上ですが、木が生い茂り眺望は良くありません。 以上、新島襄の墓でした。 |
京の史跡めぐり
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