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所在地 港区元麻布一丁目6番21号
山号 麻布山
宗派 浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来
創建 (伝)天長元年(824)
開基 (伝)空海
【麻布山善福寺】
平安時代、唐で真言を極めて帰国された弘法大師は関東一円に真言宗を広めるために、高野山に模して麻布山善福寺を開山されました。
天長元年(824)のことで、都内では金竜山浅草寺につぐ最古の寺院です。
鎌倉時代になって、越後に流されていた親鸞聖人は、許されて京へ上る途中に善福寺を訪れました。
迎えた了海上人は、7才で仏門に上り、比叡で顕密二法を修めた俊英の僧で、当時若冠17才でした。
上人は、親鸞聖人の高徳に傾倒し、一山をあげて真言宗から浄土真宗に改宗しました。
以後、上人は関東一円にわたって、浄土真宗を広め、『大谷遺跡録』によると、関東六老僧の一人として名を残しています。
また、二度にわたる蒙古来襲に際して、亀山天皇の勅願寺となりました。
時代がすすみ、浄土真宗は、庶民の間に根強く広まり、やがて一向一揆がおこり、石山本願寺で織田信長と戦火を交えるほどの勢力になりましたが、善福寺は籠城する僧に援軍を送りました。
乱後、豊臣秀吉は関東を平定しましたが、当寺には寺領保護を誓約しました。
江戸時代になると、特に3代将軍徳川家光は甲良豊後守に命じ当時の建築の粋を集めて本堂を建立し寄進しました。
又、東京の地名となっている虎ノ門は当時の善福寺の山門であり、杉並の善福寺池は当時の奥の院跡で当時の寺領の広さがわかります。
1859年になると善福寺は初代アメリカ合衆国公使館としてタウンゼント・ハリス公使以下の館員を迎えました。
その頃、壤夷を唱える人々の襲撃をうけ庫裡、書院などが焼失しましたが、僧たちの機転によって身をもって公使館員を守り、日米の友好の絆を深めました。
そのころより後に三井物産創始者の益田孝氏や古河市兵衛氏、福沢諭吉氏が当寺に出入りし、明治8年12月8日まで公使館として使用されました。
現在の本堂は、慶長12年(1607)に徳川家康が東本願寺八尾別院本堂として建立したもので、京都天明の大火の後、約10年間、東本願寺の御影堂の役も勤めた建物を移築 ・再建した由緒あるものです。
又、昭和54年9月に多くの方々の協力のもとに麻布山会館が建立され、講堂、山廟などこれから必要とされる新しい設備が整っています。
(麻布山善福寺HPより)
東京メトロ南北線麻布十番駅から西へ行った所にあります。
入口近くの碑。
開山弘法大師創立
親鸞聖人御舊跡地
初代米国公使館趾
参道途中の柳。
柳の下に井戸。
説明板。
参道突き当たりに勅使門。
説明板。
勅使門を潜って境内へ。
勅使門を入って左側に手水舎。
正面に本堂。
説明板。
境内北側。
タウンゼント・ハリス顕彰碑。
裏面。
初代米国公使館趾だと云う。
説明板。
亀子臺の扁額。
かつては、山号を「亀子山」と号していた。
境内の南側へ。
墓地に黄金色に色づく大イチョウ。
墓地内から見る。
説明板。
英語の説明板。
親鸞上人が地に差した杖から成長したと云う。
このイチョウは国の天然記念物です。
根がせり上がり、枝先から下に伸びて逆さになったように見えることから「逆さイチョウ」と呼ばれている。
見上げる。
イチョウ雄株特有の大きな気根(乳)を垂らしている。
樹齢750年と云う。
戦時中の空襲で幹の上部を失ったが、見事に蘇生している。
親鸞上人像。
逆光で良く見えなかったので望遠で。
側面から。
背後から。
開山堂へ向かう。
越路吹雪の碑。
鐘楼。
開山堂。
説明板。
開山堂脇の紅葉。
歌碑。
色も深まってきました。
晩秋です。
福沢諭吉の墓。
昭和52年(1977)に品川区大崎から移ってきた。
墓地には、伊予松山藩士で儒家だった赤松沙鴎の墓がある。
播磨出身と云う。
赤松氏一族だろうか?
境内裏に聳える元麻布ヒルズ。
境内地を森ビルに売却し建設されたもの。
本堂の木鼻。
水面に浮かぶ落葉。
境内を出る。
参道には塔頭が建ち並ぶ。
振り返る。
大寺院であったが、背後のビルが大きすぎて景観が損なわれてしまった。
秋には訪れたい麻布の善福寺でした。
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