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登城日 2013年 3月13日(水)曇 難易度 ☆ 場所 浜松市中区鴨江4-17-1 【鴨江城】 鴨江寺付近にあった南北朝時代の城。 暦応2年(1339)に鴨江城攻略のことが記録に現われるが、鴨江城の位置については、確かな遺構もないため、はっきりしない。 大正15年(1925)の『浜松市史』には、鴨江寺東側高地に明治初年まで土壘の跡があったとの記事が見られ、これを鴨江城跡としているが、鴨江寺関係の遺構であった可能性も否定できない。 立地の点でも、城には適さないように思われる。今後なお検討を要する城跡である。 (shizuoka城と戦国浪漫より) 井伊谷城の記事でもご紹介した支城配置図。 鴨江城21番。 曳馬城の南西にあった鴨江城は、現在鴨江寺が建つ付近にあったと云う。 暦応2年(1339)7月27日に南朝方だった鴨江城は、北朝方の斯波氏によって攻め落とされた。 しかし、鴨江寺は窪地のような地形に立地し、ここが城があったとは思えませんでした。 鴨江寺の東で西小のある高台や、少し南東のホテルが建つ稲葉山、または賀茂真淵生誕地付近や浜松西高の建つ辺りの高台の方が相応しい気がしました。 奈良時代に創建された鴨江寺は、平安時代には300余りの寺院を持つほど繁栄。 平安時代の長暦元年(1037)には、鴨江寺が仏教の戒律を授けるための壇(戒壇)を築造したことにより比叡山延暦寺と戦いになったと云う。 鴨江寺から南に行った、旧東海道にはその際戦場となった鎧橋が残る。 説明板。 JR東海道線西浜松駅。 駅と言っても貨物専用の駅。 付近には引退した117系が寂しく留置されていました。 西浜松駅北側の堀留運河跡。 説明板。 堀留運河までの浜名湖からの川が支城配置図にある鴨江城南側の川と似ている。 堀留運河に架かる城山橋を渡る。 渡った所に城山遺跡の碑。 古代の敷智郡衙跡と云う。 また、ここに中世豪族の居館があったといい、ここが位置不明の鴨江城との説も。 【城山】 浜松市南部の海岸低地に作られた中世豪族の居館跡。 延宝6年(1678)頃の古絵図に「城山松林」と記す部分が書き込まれている。 古くから城山と呼び慣わされてきたのであろうが、そうした城史については全く手がかりがない。 昭和25年(1950)に発掘調査が行われ、古い灰紬陶器が注意されていたが、最近の発掘調査では、唐三彩片や具注暦断簡等を含む奈良時代の遺物も出土し、律令期の遠江国敷智郡家跡と目されている。 律令期の遺構をこわして、幅5mの堀跡がみつかり、鎌倉時代末から室町時代にかけての常滑焼や内耳土器、漆塗碗等が出土した他、木簡も数点得られた。 周辺はすっかり開発され、他に遺構らしいものはない。 地名、出土品、5m幅の堀跡から、中世城館跡の存在は推定できるが、なお寺跡であることも否定できないし、位置不明の「鴨江城」こそ、これではないかとする余地も残されている。 (shizuoka城と戦国浪漫より) 付近は団地が建ち並ぶ。 城山など全くない。 城の存在を匂わせるのは、「城山」という地名のみ。 城山遺跡を後にしました。 位置不明の鴨江城でした。 (おまけ) 城山遺跡から堀留運河を東へ進むと伊場遺跡があります。
古代の住居が復元されています。 詳しくは浜松市伊場遺跡資料館へ。 伊場遺跡の北側の踏切。 浜松工場への引込線。 工場側。 伊場遺跡の一部を国鉄の敷地として提供するにあたり訴訟になったとか。 300系を見かけた時は、まだ工場東側の引込線の線路は僅かに残っていたのですが、すっかり無くなっていました。 西側を覗いてみる。 東側。 東側を覗いてみる。 その先。 横断歩道を渡って、浜松駅方面へ。 げんこつハンバーグが地元で有名な炭焼きレストランさわやか。 振り返る。 先へ進む。 ここから堀留ポッポ道。 案内板。 側面。 前面。 ケ91タンク機関車だそうです。 ここからかたらいの小道。 ここからは線路の模様が無い。 小道の真ん中に花壇。 かたらいの小道終わり。 ここから遊びの小道。 ここに案内板があります。 JR東海道本線が見えてきました。 振り返る。 引いて見る。 JR東海道本線と合流。 JR浜松駅へ戻る。 |
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