|
(もどる) 堀切を過ぎた所で行き止まり。 覗きこむ。 少し戻って、 下りた所がオンマヤ下。 この辺りは急斜面。 オンマヤ下の姥神様と里見氏忠臣八賢臣の墓。 中世はやぐらだったらしいが、崩れてしまっている。 南北朝時代の五輪塔が立ち並んでいる。 伯耆国倉吉で殉死した八賢臣は八犬士のモデルと言われる。 南へ進む。 庚申山との間。 石垣かと思ったら、岩肌が露出しているだけだった。 今来た道を振り返る。 南側の平地に館山藩陣屋があった。 庚申山。 山頂に館山藩主稲葉氏が祀った貴美稲荷神社が鎮座。 付近にあった案内図。 陣屋跡はこの辺かな。 南を見る。 采女井戸。 里見忠義の側近印東采女佑の屋敷の井戸と伝わる。 陣屋跡のクランク。 南下して上藤井を右折して西進し根古屋へ向かう。 ここを右折し北進。 お地蔵さまの先を右折。 細い道を進んでいく。 民家の先に古墓。 この辺りに本城となる以前の館山城の城番衆の集落があったそうです。 戻って、沼の方へ南下。 館山城を振り返る。 この辺りにも堀があったのかな。 向きを東へ変える。 切岸。 南を見る。 ここまでが城域? 熊ノ山の切岸を振り返る。 熊ノ山を振り返る。 里見義康の菩提寺、曹洞宗慈恩院へ。 説明板。 本堂。 本堂裏に里見義康の墓。 高床式住居の古墳のミニチュアですかね? 慈恩院の門前に鹿島堀。 唯一残る水堀。 里見氏の領地である常陸国鹿島郡領の領民が造ったと云う。 付近に鹿島堀由来記。 妙音院。 高野山金剛峰寺の末寺で、天正7年(1579)に里見義康が高野山から僧を招いて創建したと云う。 北上する。 大膳山跡。 里見義康の弟、正木大膳亮時堯の屋敷があったと云う。 御霊山へ進む。 御霊山の麓に残る堀跡。 上幅14m、深さ5mの箱薬研状の水堀だった。 天王山。 御霊山から天王山へ堀が廻っていた。 堀は高台にあった。 高台の下、妙台寺の南側から西側(現たてやまこみち)にも堀があったそうです。 天王山北側の堀跡っぽい地形。 堀は天王山から西へ進み、館山城下に繋がっていた。 宗真寺。 江戸初期に創建された浄土真宗の寺。 この付近の小字を「御厩」といい、里見氏の馬場があったと云う。 館山城東側の堀跡の水田。 キリスト教共同墓地。 コルバン夫妻が眠る。 城井戸。 堀跡の駐車場。 説明板。 【鹿島堀跡】 鹿島堀は、館山城の防御施設として設けられた堀で、城の南東部から北にかけて東側を巡っていたと推定されている。 城の東側には四つの小丘陵があって「出郭」となり、鹿島堀と、その東を流れる汐入川が、二重の堀となって館山城を防禦する形になっている。 館山城は、里見氏九代義康・十代忠義が、近世初頭の二十数年間居城としたところで、鹿島堀は関ヶ原合戦の恩賞として、常陸国鹿島郡に三万石を加増されたとき、その領民をして掘らせたと伝えられている。 しかし、慶長19年(1616)に里見氏が、伯耆国(鳥取県)へ国替えとなると、館山城は取り壊され、鹿島堀も埋めもどされた。 現在鹿島堀の遺構としては、慈恩院前に現存する堀と、御霊山の東縁を巡る空堀が確認されているが、昭和59年3月の発掘調査により、公園駐車場下にも幅37m深さ2mの堀跡が確認された。 堀跡からは、多量の木材が出土しているが、これは館山城取り壊しに際して堀に埋められた建造物の一部とみられている。 館山市 館山市教育委員会 一周しました。 もう一度山頂広場へ向かいます。 新御殿跡。 里見忠義の御殿があったと云う。 孔雀園になっている。 これは土塁かな。 戦時中は海軍の施設があったのでその遺構かも。 さらに登っていきます。 千畳敷の北側。 火薬庫用洞窟。 第二次大戦中に弾薬を保管した。 千畳敷から見下ろす。 山頂広場へ。 山頂広場。 周辺案内図。 太鼓櫓跡付近を見下ろす。 城山北斜面。 新御殿跡を見下ろす。 つばきの径へ。 駐車場へ戻る。 芝生広場から館山城を見上げる。 遺構が僅かに残る館山城でした。 (おまけ) 芝生広場にある里見茶屋。
館山メンチカツ。 くじらたつた揚げ。 ピーナッツアイス。 どれもおいしかった。 駐車場近くのラーメン屋「うさぎ家」。 人気店らしく店内は満員で入れなかった。 |
全体表示
[ リスト ]


