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登城日 1回目 2013年12月14日(土)晴 2回目 2016年11月 2日(水)曇 難易度 ☆ 場所 東京都練馬区石神井台1-1900-2 最寄駅は西武池袋線石神井公園駅。 平成25年(2013)3月14日から横浜からも乗り換えなしで行けるようになった。 約10分歩いて都立石神井公園に到着。 案内板。 オナガガモ。 バン。 他にも野鳥がいます。 池のほとりには雑木林が広がります。 のどかだニャ〰 メタセコイアとラクショウの並木道。 色づくもみぢ。 逆光のもみぢ。 露出を変えて。 石神井池の西端南に練馬区立石神井公園ふるさと文化館があります。 ねり丸がお出迎え。 常設展示室へ。 豊島氏のコーナー。 石神井城域模型。 旧内田家住宅。 館内1階に「エン座」という武蔵野うどんが食べられる店があります。 かなりおいしいです。 ふるさと文化館の西側は石神井城の土塁をイメージ。 城柵。 本当の石神井城はさらに西にあった。 近くの石神井図書館の地下の郷土図書館には石神井城の模型があったらしいが、ふるさと文化館の開設とともに無くなってしまったらしい。 戻って、石神井池の西側の三宝寺池へ。 三宝寺池には国指定天然記念物の沼沢植物群落がある。 説明板。 う〰ん、わからん。 5月に再訪。 蓮。 説明板の反対側に石神井城古碑。 【石神井城趾史蹟碑】 水鳥鳴き蛍に名を得たる當石神井城趾は、其昔、豊島の豪族代々此の池を中心に附近一帯を居城となせしが、文明9年豊島勘解由左衛門尉泰経の代に至り、長尾景春は管領上杉顕定に叛き武蔵相模の同志と相謀り兵を興すに及び、當城主泰経及平塚城主なる弟平右衛門尉泰明と共に景春に應じ、江戸河越の通路を断ちしかば、江戸在城扇谷上杉定正の臣太田道灌兵を率て平塚城を攻め城下に火を放つとの報により、泰経直ちに之を救んと當城並び練馬城の兵を率て馳向く途中、江古田ヶ原沼袋にて太田の軍と遭遇、激戦数刻にして遂に泰明及板橋赤塚の一族百五十有余名討死す。 太田勢は時を移さず練馬及當城に攻め入れば、豊島勢善く戦しも衆寡敵せず城遂に陥落す、時に文明9年4月18日の事なり。 星移り物変り春秋を重ぬる事500回、天地の悠久に比すれば人生蜉蝣の如く興亡轉む夢の如し、往時を顧る者坒なく年経るにつれ此の郷土の貴き史蹟を忘れらるのを惜みて之を磐に鐫して後世に傳ふ。 昭和12年6月 史碑の裏。 三宝寺池の南側が石神井城。 橋を渡って石神井城へ向かいます。 橋を渡った所に城址碑。 説明板。 登って振り返る。 石神井城主郭に到着。 (写真は2回目のもの) 絵が無かったらまったくわからん。 引いて見る。 (写真は2回目のもの) 戻る。 石神井城の中心内郭跡説明板。 東京都指定史跡 【石神井城跡】 指定 平成23年6月9日 石神井城は、秩父平氏の一族で、石神井川流域を中心とする現在の東京都区部北側の地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた、豊島氏の居城でした。 石神井川と三宝寺池に挟まれた標高約49mの舌状台地上に所在し、東西約350m、南北350mの規模の主廓と外廓からなる、比較的単純な構造の中世城郭です。 昭和31年(1956)以降の数次の発掘調査によって、主廓や土塁築土から12世紀から16世紀前半までに属する陶磁器が出土しています。 文明8八年(1476)の長尾景春の乱の際、当時の城主豊島泰経は景春に与したので、扇谷上杉氏の家宰太田道灌に攻められることとなり、翌年、石神井城は落城しました。 落城後、泰経が白馬に乗って三宝寺池に深く沈み、長女照姫も後を追って入水したなど、落城にまつわる伝説が伝えられています。 平成24年3月建設 東京都教育委員会 普段は立入禁止。
覗いてみる。 年一回(11月)公開されているようだ。 (以後、しばらく写真は2回目のもの) パネル展もやっていました。 堀説明板。 土塁説明板。 文献資料にみる石神井城。 カラスを捕獲する罠。 石神井城はカラスの楽園になっている。 主郭南側土塁の東側。 ここで土塁は切れている。 南側土塁。 土塁の南側に道が見下ろせる。 東側は土塁が崩されて民家との境に塀が建っている。 北東端。 北側もフェンスで仕切られている。 もう一度主郭を見る。 北西端の土塁上から三宝寺池から登ってきた所を見下ろす。 土塁上を南へ。 もう一度内堀跡。 主郭跡を出る。 主郭の西側には氷川神社が鎮座。 (写真は1回目に戻る。) いそぐとも拝んで通る宮の前。 氷川神社境内。 ここも郭跡だったようだ。 氷川神社御朱印。 境内を出る。 境内の西側へ。 三宝寺池への階段を下る。 石神井城は池から見ると一段高い。 ちょっとトイレへ。 えっ ??? 変なトイレ 見上げれば燃えるようなもみぢ。 北西端から南を見る。 道の東側は堀があったとか。 旧早稲田通りと交差。 家々は堀跡に建っていると云うが、全然わからなかった。 ここから下る。 この辺りが南西端かな? 上御成橋。 石神井川が南の外堀。 氷川神社参道入り口。 三宝寺へ。 説明板。 徳川家光が狩猟の際に、この寺を休憩所としたのに由来。 境内案内図。 本堂を囲むような高台も郭跡かな。 八十八ヶ所お砂踏み霊場がある所は土塁跡にも見える。 三宝寺本堂裏の平坦地。 主郭の南側に位置する。 (写真は2回目のもの) 三宝寺を出る。 長屋門は、成増の兎月園にあった勝海舟邸の屋敷門を移築したもの。 三宝寺の東側は道場寺。 豊島氏の菩提寺。 説明板。 石神井城の東側の堀への道。 この辺りが東側の堀だそうです。 堀の西側の切岸。 登った所は三宝寺の本堂の裏。 突き当たりの長屋門。 長屋門から東側の堀を見る。 主郭の方へ。 主郭南側の土塁の所まで戻って来ました。 この道も堀跡。 (写真は2回目のもの) 主郭を見る。 (写真は2回目のもの) 雨の日はこのように見えるとか。 ぐるーっと一周しました。 最後にもう一度三宝寺池へ。 ここが23区内とは思えない景色。 池の北側に殿塚。 説明板。 説明板。 悲話に因んで、毎年4月の第4週目の日曜日に照姫まつりが開催される。 (史実では無いらしいが…) |
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住みたい街ランキング第一位の吉祥寺。 駅前には闇市の名残「ハモニカ横丁」。 駅周辺には東急百貨店など商業施設が複数あり買い物に便利。 また、南側には井の頭恩賜公園があり憩いの場となっている。 しかし、この駅周辺には吉祥寺はない。 吉祥寺は江戸時代初期には駿河台にあった。 明暦の大火(1657年)によって焼失し、吉祥寺門前町の住民が代替地としてこの地を与えられ移住してきた際に名付けたのが由来。 駿河台へ行ってみる。 最寄駅は水道橋。 水道橋の名は、この橋の少し下流に神田上水の懸樋があったことに由来。 神田上水の懸樋跡。 神田上水は現在の吉祥寺にある井の頭池を水源とする上水道。 水道橋の北側に吉祥寺があり、当時は吉祥寺橋と呼ばれていたと云う。 吉祥寺は、長禄2年(1458)に太田道灌が江戸城築城に際し和田倉付近の井戸から「吉祥吉祥増上」と刻銘した金印を得、これを瑞祥として青巌を請じて西の丸に建立されたおが起源と云う。 諏訪山という山号は創建された地が諏訪神社の社地であったことによる。 その後、徳川家康の関東入府にともなって駿河台(現在の都立工芸高校辺り)に移された。 付近を歩いてみましたが、吉祥寺の痕跡は見つけられませんでした。 旧町名の案内板。 【旧 元町】 (昭和40年までの町名) もとは本郷村。 江戸初期は御弓同心の組屋敷であった。 その後この組屋敷は大塚辺に移された。 元禄4年(1691)徳川家康の江戸入りに従って三河から来た供衆が、内神田の三河町からここは移って来た。 元禄9年(1696)町屋を開いたが、この辺の拝領地としては、最も古い方なので元町と名づけたという。 明治2年、町内を東西に分けて、上町を1丁目、下町を2丁目とした。 同5年、旧高松藩松平氏邸および付近を合併した。 現在の昭和第一高校前の神田川に、神田上水の懸樋が渡されて、江戸っ子に飲料水が贈られた。 都立工芸高校に北にある讃岐金刀羅宮東京分社。 旧高松藩松平氏邸跡に建つ。 説明板。 吉祥寺が明暦の大火(1657年)によって焼失後、高松藩松平家の下屋敷となった。 その後、3回目の移転先が本駒込です。 行ってみる。 最寄駅は東京メトロ南北線本駒込駅。 旧町名案内。 【旧 駒込吉祥寺町】 (昭和41年までの町名) むかしは駒込村の農地であった。 江戸時代初期に、越後村上城主堀丹後守の下屋敷となった。 明暦3年(1657)の振袖火事(明暦の大火)後、水道橋(もと吉祥寺橋)の北側一帯にあった吉祥寺が移って来た。 そして岩槻街道(日光将軍御成道)に沿って門前町屋が開かれた。 延享2年(1745)から町奉行支配となった。 明治2年、吉祥寺門前町と吉祥寺境内の全域を併せて、駒込吉祥寺町とした。 江戸時代、吉祥寺には旃檀林といって、曹洞宗の学問所があった。 学寮、寮舎をもって常時1,000人余の学僧がいた(現在の駒澤大学に発展)。 二宮尊徳、榎本武揚、鳥居耀蔵、や川上眉山らの墓がある。 所在地 東京都文京区本駒込3-19-17 山号 諏訪山 宗派 曹洞宗 本尊 釈迦如来 創建 長禄2年(1458) 開基 青巌周陽 山門。 享和2年(1802)再建。 旃檀林の扁額が掛かっている。 参道の枝垂れ桜。 少し早かったかな。 茗荷稲荷。 説明板。 ぬれ仏のお釈迦様。 二宮尊徳の墓碑。 境内を見渡す。 本堂。 かつては七堂伽藍を誇っていたが、戦災で山門と経蔵以外を焼失。 昭和39年に再建されたもの。 諏訪山の山号。 縁結び吉祥観音。 書院と寺務所。 書院前の枝垂れ桜の花。 センダン。 初夏に薄紫色の花を咲かせ、秋には黄色い実をつけます。 「楝」(おうち)の別名を持ち、邪気を払う霊木としても知られている。 鐘楼。 鐘楼脇の枝垂れ桜。 枝垂れ桜の花。 小出浩平先生顕彰歌碑。 経蔵。 文化2年(1804)再建。 旃檀林の図書収蔵庫。 文京区指定文化財。 満開のソメイヨシノ。 ソメイヨシノの花。 経蔵のそばに赤松則良の墓。 ここには、森鴎外と離縁し他家に嫁いだ長女・登志子も眠っている。 榎本武揚の墓。 駒込吉祥寺を後にする。 最後に御朱印。 地名由来の寺、駒澤大学の前身、そして赤松家由緒の寺、吉祥寺でした。 |
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名代後楽そば 有楽町店
評価 ☆☆☆☆ 有楽町駅の改札外にあります。
有楽町店と名乗っているが、現在はここのみ。 かけそば。 出汁がなかなかうまい。 ねぎのせ放題なのがうれしい。 ここではそばよりやきそばかな。 うまい、安い、早い。 何回もお世話になった店ですが、JRガード下の耐震補強工事のために、本日をもって閉店となりました。 残念だなぁ〜 |
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(もどる) 鷹射場から下る。
堀切を渡る。 鐘撞堂(烽火台)から下りてきた所に戻って来ました。 宝ヶ池。 説明板。 その先に大杉。 説明板。 残念ながら平成25年8月11日午後の落雷で焼けてしまった。 飯縄曲輪北側下の東側に土塁の有る曲輪。 上から見下ろす。 その上の曲輪。 飯縄曲輪の北側を進む。 飯縄曲輪の西側へ。 虎口があった。 下りて行く。 車坂(男坂)を登って来た堀切へ戻って来ました。 直進が本丸。 右が女坂。 尾根道を直進。 太鼓曲輪下。 右へ進めば太鼓曲輪へ。 左側に家老屋敷。 家老屋敷。 家老屋敷から太鼓曲輪切岸を見る。 足元に戦国時代の石垣があったのを知ったのは帰宅後でした 太鼓曲輪へ。 太鼓曲輪南側の土塁。 家老屋敷を見下ろす。 先へ進む。 堀切。 引橋が架かっていたと云う。 本城曲輪下までやってきました。 土蔵のあった曲輪。 虎口跡。 米曲輪へ。 米曲輪から本城曲輪の土塁を見る。 説明板。 築井古城記碑。 説明板。 米曲輪を進む。 城下を見下ろす。 大手虎口あたり。 米曲輪の北端。 WCがある。 津久井湖を見下ろす。 本城曲輪へ。 本城曲輪に説明板。 説明板。 近づいて見る。 本城曲輪を後にする。 堀切を渡る。 もう一枚。 引橋跡。 剣先から太鼓曲輪を見る。 また車坂(男坂)を登って来た堀切へ戻って来ました。 今度はまきみち(女坂)へ。 緩やかな坂が続く。 大日向。 下に小さな曲輪が段々に続いている。 土塁。 先へ進む。 竪堀を見上げる。 帰りは北根小屋の方に下りて行きました。 小網諏訪神社。 建久4年(1193)に築井太郎二郎義胤が建てたもの。 城山ダムを造る時にこの地へ遷座させられた。 境内の桜。 天気が良ければなぁ〜 津久井湖と桜。 津久井城北麓の花の苑地。 付近の桜の名所らしい。 行ってみる。 う〰ん やはり天気がよければ印象変わったかも。 さようなら津久井城。 麓まで行くのは大変ですが、整備されているので登りやすい津久井城でした。 |


