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登城日 2016年 4月 2日(土)曇 難易度 ☆ 場所 神奈川県相模原市緑区根小屋 最寄駅はJR横浜線橋本駅。
神奈川中央交通バス鳥居原ふれあいの館行きバスに乗り、根小屋中野バス停下車。 坂を登って行きます。 坂を登りきると津久井城が見えてきました。 まずは、陣屋跡にあるパークセンターへ向かいます。 外堀のような尻久保川を渡る。 城坂の道祖神を曲がる。 陣屋跡到着! 門前の桜。 五分咲きかな。 陣屋跡。 説明板。 研修棟で情報収集。 模型。 南から。 東から。 北から。 西から。 ここでパンフレットを貰う。 パンフレットのマップを持って、 城坂橋を渡る。 見下ろすと牢屋の沢。 説明板。 この辺りの沢は深い。 駐車場となっているしんでんにあるマップ。 説明板。 西側に土塁のようなものが見える。 馬場へ登る。 御屋敷跡西側を見下ろす。 牢屋の沢を見下ろす。 説明板。 説明板。 馬場から丹沢山脈を眺める。 三増峠の戦い説明板。 小倉道と交差。 さらに城坂を登って行きます。 ここから徐々に坂がきつくなってきます。 分岐点。 右が車坂(男坂)。 左が女坂。 大手道へ行くには左ですが、現在大手道は通行不能なので右へ進みます。 堀切へ到着。 小倉道から約10分でした。 振り返る。 まず飯縄曲輪へ向かいます。 右側に土塁。 虎口から飯縄曲輪を見る。 本来この西側の階段はなく、東側からしか行けなかった。 帯曲輪からさらに一段上へ。 飯縄曲輪。 飯縄神社が鎮座。 飯縄曲輪東側の本来の城道。 進んで鐘撞堂(烽火台)へ。 鐘撞堂(烽火台)と土塁。 説明板。 みはらしから相模原市街が見えた。 鐘撞堂(烽火台)へ戻る。 飯縄曲輪への城道を見る。 飯縄曲輪を西側から廻りこんでくる城道は草茫々。 鷹射場へ向かいます。 下に小さな曲輪がありました。 宝ヶ池の手前を左折。 小さな曲輪の北側を進む。 堀切。 尾根道を進む。 登って行く。 鷹射場。 こちらの方が相模原市街が良く見えた。 河岸段丘なんですね〰 小さな曲輪が何個かある感じだった。 ここからさらに東へ行けば十兵衛山経由で小倉へ下山出来る。 もう一度鷹射場を見る。 鷹射場を後にする。 いよいよ本丸へ向かいます。 (つづく) |
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下野薬師寺等跡の東側。 土塁? 城跡かと思って南側へ行ってみたら神社があった。 下野薬師寺八幡宮という。 説明板。 【八幡宮】 薬師寺八幡宮の起源は古く、主祭神は誉田別命で貞観17年(875)京都の石清水八幡宮の祭神を勧請して東北守護の大神としたと伝えられています。 また一方では下野薬師寺の寺内社として直接宇佐八幡宮(大分県)から分社されたともいわれている。 天喜4年(1056)源頼義が奥州追討の途中当社に立ち寄って戦勝を祈願したが、その際、後続軍と奥州軍との戦いで社殿などすべてを焼失したといわれている。 その後近世に入って、新たにこの地を支配地とした佐竹右京大夫義(秋田藩三代藩主)の援助によって寛文2年(1662)に本殿及び拝殿が再建されたものとされる。 現存する本殿と拝殿はまさにその時代の特徴を留めており、17世紀までに遡り得る県内でも数少ない神社建築として貴重なものである。 薬師寺の八幡宮は歴史も古く、常にこの地域のシンボルとして崇敬され深い信仰をあつめている。 平成8年3月 下野市教育委員会 由緒略記。 手水舎。 裏に左から、(種銭)毘沙門天像、(三昧)弁財天像、(海豚)恵比寿神像、(金比羅)大黒神像と古札納所。 庚申様。 不明の古社。 古墳かな。 土塁に見えるなぁ〜 本殿。 拝殿。 拝殿東側に祖霊社。 祖霊社の東側に三十三社稲荷。 ここは台地の縁。 切岸みたいな急斜面。 三十三社稲荷の南側に五条天満宮と千勝神社。 旗揚げ祈願旗。 説明板。 ここでようやく弓削道鏡が登場。 金精様。 道鏡のシンボルを祀る。 大銀杏。 神楽殿。 参道を進む。 境内を振り返る。 一の鳥居。 葉書の木。 源頼義手植えの大欅。 昔、梟が棲みついていたと云う。 夏目坂という薬師寺から東方に下る坂があり、ここにも狐の嫁入り伝説がある。 参道を振り返る。 二の鳥居。 脇に雷電神社。 説明板。 下野薬師寺八幡宮を後にする。 参道入り口。 境内の西側に境外摂社の八坂神社。 下野薬師寺八幡宮の南に行くと龍興寺がある。 境内案内図。 山門。 本堂。 そして、本堂脇に道鏡塚。 【弓削道鏡について】 いまを去る1200余年前、奈良時代の高僧・弓削道鏡の墓所が当所です。 道鏡は若くして仏道に精進し、厳しい修行を積み重ね、高度な医学も身につけた立派な人です。 孝謙天皇に仕えて十年余り、天皇が崩御されますと、上層社会に権力を振るう者たちの陰謀によって、ここ下野薬師寺別当職に移されました。 道鏡は、都を遠く離れたこの霊場において、天皇のご冥福と人々の幸せを祈りながら、772年4月7日不遇の生涯を閉じました。 従来の正史は、その時々の権力者の都合で記されたもので、決してありのままでなかったことを遺憾に思います。 私たちは、歴史の真実性を尊重する立場に立って活躍された故・横嶋斜月先生や、故・古田清幹先生の遺志を受け継げ、道鏡禅師の更なる顕正をめざします。 1994年4月7日 道鏡を守る会 道鏡塚前に奈良時代の礎石。 道鏡を寵愛した孝謙天皇は、都から追いかけてやって来たとも。 JR石橋駅から西へ約1km行ったところに孝謙天皇神社がある。 説明板。 【孝謙天皇神社由来】 今から約千二百余年の昔、下野国薬師寺の別当に弓削道鏡が配流された。かつて道鏡は法王として孝謙天皇(女帝)に最も厚い信任を得ていました。 女帝は配流された道教をあわれみ、この地にまえり病没したと言い伝えられていますが、女帝の崩御後、道鏡と共に女帝に仕えていた高級女官の篠姫・笹姫も配流されてきた。 二人は奈良の都には永久に帰ることが出来ないことを悟り、女帝の御陵より分骨をして戴き、銅製の舎利塔に納め当地にあった西光寺に安置し、女帝の供養につとめた。 その後、西光寺は廃寺となり、村人達は舎利塔を御神体に祀り孝謙天皇神社と改め、8月4日(崩御の日)に女帝を偲び、清楚なお祭りを催し今日に至っています。 なお、二人の女官の墓は、ここより南五百メートル位の所に、篠塚・笹塚として戦前まで保存されていたが、残念ながら現在はその跡しか残っておりません。 祭日 9月4日(月遅れで実施) 境内の様子。
社殿。 社殿の裏には孝謙天皇の塚? 孝謙天皇と書いてある。 付近には高級女官の墓と伝わる古墳がある。 孝謙天皇神社から南の上大領にある御笹塚。 その北に位置する御志塚。 道鏡縁の地、下野薬師寺跡でした。 |
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場所 栃木県下野市薬師寺1737 薬師寺城跡から北へ進む。 下野薬師寺歴史館が見えてきたら右折。 まずは情報収集。 【ごあいさつ】 下野薬師寺の創建は、7世紀末の天武天皇期と推定されています。 8世紀後半には戒壇が設置され、東大寺、筑紫観世音寺とならび三戒壇の一つとして、仏教文化が栄華を極めていました。 大正10年3月3日に国史跡に指定された下野薬師寺跡は、昭和41年から発掘調査が実施され、壮大な伽藍を持つ寺院であることが確認されています。 史跡下野薬師寺跡保存整備事業は、平成9年より国の史跡等活用特別事業を導入して、「ふるさと歴史の広場」の整備に着手し、史跡地の整備と下野薬師寺歴史館の建設を実施しました。 本館は、下野薬師寺に関わる遺物等を中心に展示し多くの皆様に下野薬師寺の歴史を紹介しております。 ぜひ、現在の豊かな南河内町を築きあげた歴史の歩みと文化遺産をご覧ください。 平成13年4月 下野薬師寺の歴史パネル。 瓦の変遷。 こげた瓦。 関連遺跡。 基壇について。 歴史館の屋上から下野薬師寺跡を見下ろす。 向かいます。 寺の外郭南西隅。 説明板。 境内の南西に史跡総合説明板。 歴史館が開いていないときはここで情報収集。 伽藍復元図。 南西隅。 回廊の基壇説明板。 回廊を北へ進む。 回廊の北西隅は復元されている。 内部の様子。 外から見る。 回廊建物の復元説明板。 回廊北側を進む。 復元回廊を振り返る。 講堂跡。 説明板。 基壇がない。 模型で。 講堂跡から北を見ると中金堂跡。 ここにあった説明板。 講堂と金堂が逆になってる。 回廊の延長線上にあるので、講堂=中金堂かな? 金堂は講堂の北にあった。 模型では更地の所かな? 史跡総合説明板で。 現在は六角堂が建っている。 説明板。 かつてあった戒壇。 六角堂から南を見る。 進むと土塁。 ここは現在は安国寺の境内なので、安国寺のものかな。 この辺りに中門があったのだろう。 模型で。 引いて見る。 下野安国寺の山門。 説明板。 下野薬師寺を改称したと云う。 御朱印。 境内に残る下野薬師寺の礎石。 下野薬師寺の史跡碑。 境内を出る。 安国寺境内の東側を進む。 安国寺本堂の裏に講堂の南東にあった建物の基壇。 下野薬師寺跡の範囲は広い。 東側へ。 塔跡があります。 塔跡。 説明板。 隣りには幢竿支柱跡。 説明板。 外郭東側から塔跡と下野薬師寺跡を見る。 北西へ。 三昧場。 僧侶の斎戒沐浴をした場所と云う。 三昧場付近から下野薬師寺跡を見る。 下野薬師寺は、南北に流れる東側の田川と西側の浅い侵食谷にはさまれた半島状の洪積台地の中央に位置しているため、低地からは見上げる形となり、人々の目にたいへん壮大に映っただろう 下野薬師寺跡の周辺を歩きます。 |
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登城日 2015年 5月 5日(火)晴 難易度 ☆ 場所 栃木県下野市薬師寺2975-1 最寄駅はJR宇都宮線自治医大駅です。 駅前の案内板。 下野薬師寺に行く途中にあります。 矢印はここを曲がるになっているが、曲がらず真っ直ぐ進む。 付近の町名はもう「薬師寺」。 「ショコラの食卓」 かなり賑わっていました。 北側に薬師寺城跡が見えてきました。 農道を進んで近づいてみます。 う〰ん。 わからん。 一旦戻ります。 コンビニのある大きな交差点を左折。 少し進んで小さな道を進みます。 何かある! 説明板。 【薬師寺城跡】 今から約750年前の寛喜年間(1229〜31)に小山氏一族の小山朝村が創建した。 以来、慶長の役のころまでの360年間14代にわたって薬師寺氏の居城として一族繁栄の道を歩んできた。 朝村は小山長村の子で薬師寺荘の領主になり、薬師寺の姓を名乗るようになった。 現在は雑木林と畑になっており、通称、次郎左衛門と呼ばれるこの林の中に本城の中心が存在するものと推定される。 林の北端と農道に沿って東西約200mの薬研堀が現存している。 平成11年3月 凹んでいる。
草が茫々で解りにくい。 覗くと良く解るが、写真だと解りにくい。 この辺りは堀がはっきりと解る。 薬研堀かまでは解らなかった。 北西隅。 城の西側。 城の北側を堀跡に沿って戻る。 また堀跡を覗く。 薬師寺城を後にする。 たぶん民有地なので城跡に入れない。 整備してくれたらなぁ〜 |


