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場所 神奈川県鎌倉市山ノ内、扇ガ谷 長寿寺の脇が入り口。 長寿寺の門。 昔はこちらが正面だったのかな。 登って行きます。 木が生い茂る。 約3分ほどで坂の頂上。 大分掘ってしまって低くなっている。 脇は岩が崩れてこないように板塀やフェンスが建っている。 説明板。 国指定史跡【亀ヶ谷坂】 この道は、扇ガ谷と山ノ内とを結ぶ、亀ヶ谷坂と呼ばれる切通です。 切通とは、山を切り開いて造られた道のことで、交通を容易にするとともに、防御の拠点ともなっていました。 亀ヶ谷坂が造られた正確な時期はわかりませんが、13世紀の中ごろには切通として整備されていたようです。 『吾妻鏡』によれば、幕府が鎌倉市中の7箇所の商業区域の1つとして「亀谷辻」を指定しており、建長寺や円覚寺などの大寺院が建立された山ノ内と、鎌倉市中を結ぶ亀ヶ谷坂は、経済的にも、軍事的にも、重要な場所だったことがわかります。 江戸時代には「鎌倉七口」の1つに数えられるようになり、現在も生活道路として利用されています。 平成24年3月 鎌倉市教育委員会 |
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所在地 神奈川県鎌倉市山ノ内1503 山号 宝亀山 宗派 臨済宗建長寺派 本尊 観音菩薩 創建 伝・南北朝時代初期 開基 古先印元、伝・足利基氏(開山) 北鎌倉駅から建長寺へ向かう途中にあります。 季節、曜日限定で特別拝観されます。 説明板と石塔を背負った亀趺。 【長寿寺】 足利尊氏が邸跡に建武3年(1336)創建し、諸山第一位の列に定めました。 尊氏没後、父の菩提を弔うため鎌倉公方足利基氏によって七堂伽藍を備えた堂宇が建立されました。 尊氏の法名を京都では等持院殿、関東においては長寿寺殿と称します。 開山は古先印元禅師。 正面本堂に足利尊氏坐像と古先印元禅師坐像が祀られています。 右奥の観音堂は奈良の古刹忍辱山円成寺の多宝塔を大正時代に移築、改造したものです。 境内奥に尊氏の遺髪を埋葬したお墓があります。 反対側に地蔵さま。
山門。 山門から境内を見る。 正面に本堂。 本堂。 左手に亀ヶ谷坂への門。 右へ曲がる。 本堂脇の玄関から入る。 本堂でお参り。 中央に新たに祀られた釈迦如来坐像。 両脇に開山の古先印元坐像と開基の足利尊氏坐像が安置されている。 本堂から山門を見る。 玄関前の庭園を見る。 方丈へ。 方丈。 昼尚暗。 ひょうたんのランプ。 書院へ。 書院の庭。 秋はもみじがきれいなのだろう。 まったりした後、戻る。 玄関から出て観音堂へ向かう。 山門の方へ戻る。 左へ曲がる。 方丈を見る。 観音堂。 大正時代に奈良の円成寺の多宝塔を移築したもの。 元本堂で観音菩薩を祀る。 奥へ進む。 足利尊氏の墓。 遺髪を納めた宝篋印塔。 青もみじ。 書院の庭の方へ下りて行く。 シャガ。 書院の庭。 書院を見る。 庭を進む。 本堂裏に駐車場。 ここにもシャガ。 山門の方へ戻る。 紫蘭。 かえる。 最後に御朱印。 新緑と苔庭がきれいな長寿寺でした。 |
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(もどる) ちょうど明日の小机城址まつりの予行演習をしていました。
本丸広場周囲に残る土塁。 つなぎ曲輪との間の空堀。 つなぎ曲輪への突き出た虎口。 空堀を見る。 つなぎ曲輪へ。 土橋から空堀を見る。 北側。 南側。 説明板。 二の丸広場虎口を見下ろす。 二の丸広場櫓台を見る。 二の丸広場との間の空堀を見下ろす。 つなぎ曲輪の北側を見下ろす。 本丸広場との間の空堀を見下ろす。 つなぎ曲輪。 矢倉跡から見る。 矢倉跡から本丸広場との間の空堀を見下ろす。 本丸広場へ戻る。 説明板。 中世の城について。 また本丸広場へ。 本丸説明板。 冠木門。 城址碑。 土橋を渡る。 冠木門を振り返る。 土橋から本丸広場土塁と空堀を見る。 根古屋から登って来た所に戻ってきました。 土塁を見る。 土橋を見る。 富士仙元へ向かう。 下る。 下る。 第三京浜脇を下る。 第三京浜によって削られてしまった所。 第三京浜を潜る。 横浜城山トンネル。 上部は出丸。 出丸へ。 出丸から本丸を見る。 第三京浜によって削られた所には何があったのかな? 出丸。 小机城址供養碑。 城坂を下りる。 小さな曲輪があるような。 民家に出た。 再び出丸へ。 小机駅の方を見る。 左側が小机城。 右側が古城。 富士仙元へ。 富士仙元は櫓台に見えるが古墳とか。 出丸を見下ろす。 南へ進む。 城山トンネルの上は雑木林。 住宅地へ出た。 西を見る。 出丸を振り返る。 ここで思いっきり滑ってコケたので要注意! この住宅地にも曲輪があったんだろうな。 削った跡。 南へ下りて行く。 横浜上麻生道路に出た。 古城へ行ってみようとしたが… 金剛寺へ。 やはり古城へ行けず。 何かあるようにも見えるが。 線路を渡って小机城の北東へ。 矢之根にも案内板。 五、六橋跡。 日産スタジアム。 小机城と同じくらい大きい。 ここで日没。 周辺の史跡も見たかったなぁ〜 また訪れたい小机城でした。 |
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登城日 2014年 4月 5日(土)晴 難易度 ☆ 場所 神奈川県横浜市港北区小机町 最寄駅はJR横浜線小机駅。
南口から出る。 駅横にある横浜市城郷小机地区センター。 城っぽい。 至る所に旗。 こちらにも。 本当は明日来れれば良かった 線路の北側に小机城。 案内板。 根古屋付近。 住宅地と数段の削平地。 根古屋広場。 ちょっと脇へ逸れてみる。 土塁? 数段の曲輪。 線路の南側に古城。 戻る。 登って行く。 振り返る。 土塁上に到着。 本丸広場側。 空堀に土橋が架かっている。 二の丸広場側。 脇に深い空堀。 空堀に見惚れて二の丸広場へ向かう。 見事な空堀。 根古屋側を見下ろす。 進む。 小さな曲輪。 大手馬出? 大手道? 振り返る。 土塁? 櫓台? 先へ進む。 空堀がいいねぇ〜 説明板。 拡大。 空堀を土橋方面へ戻る。 進む。 本丸広場への土橋。 戻る。 説明板の所から先へ進む。 二の丸広場南側下の曲輪。 ここが大手? 二の丸広場へ登って行く。 振り返る。 反対側。 二の丸広場入り口にある案内板。 虎口から本丸側を振り返る。 本丸との間につなぎ曲輪がある。 土塁説明板。 北側に櫓台(天倉台)。 説明板。 こちらが主郭とも。 櫓台から空堀を見下ろす。 櫓台を下りる。 説明板。 南側にも土塁があったが、今は崩されている。 南側にも虎口。 二の丸広場南側下の曲輪を見下ろす。 僅かに残っている土塁。 二の丸広場説明板。 広場の北から出る。 空堀へ下りる。 二の丸広場の北にある櫓台。 二の丸広場北側の空堀を西へ。 少し進んで振り返る。 竹の利用説明板。 少し進んで振り返る。 竹の利用説明板。 左へ進めば二の丸広場虎口。 右へ進めば本丸広場。 二の丸広場から見下ろす。 本丸広場へ向かう。 少し進んで振り返る。 正面に二の丸広場櫓台が見える。 本丸広場北側の空堀。 つなぎ曲輪との間の空堀。 本丸広場。 (つづく) |
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登城日 2014年 5月 4日(日)晴 難易度 ☆ 場所 神奈川県鎌倉市城廻 最寄駅はJR東海道本線大船駅。 西口から出る。 駅前にあった地図。 しばらく進むと、戸部橋付近に玉縄首塚があります。 甘糟榎の根元に建つ由緒碑。 【玉縄首塚由来】 今を距る四百四十余歳、大永6年(1526)11月12日、南総の武将里見義弘、鎌倉を攻略せんと欲し、鶴岡八幡宮に火を放ち、府内に乱入せるを知るや、時の玉縄城主北條氏時(早雲の孫)、豪士大船甘糟、渡内の福原両氏と供に、里見の軍勢を此処戸部川畔に邀撃し、合戦数合、之を潰走せしめ鎌府を兵火より護る。 この合戦に於て、甘糟氏以下三十有五人は戦禍の華と散り、福原氏は傷を負ひ、里見勢の死者その数を知らず。 干伐収て後、城主氏時、彼我の首級を交易し、之を葬り塚を築き塔を建て、以て郷関死守の霊を慰め、怨親平等の資養と為し、玉縄首塚と呼称す。 経云我観一切普皆平等。 昭和42年8月 トンネルを抜けて、龍宝寺を目指します。 説明板。 【龍宝寺】 宗派 漕洞宗 山号寺号 陽谷山(ようこくざん)龍宝寺 建立 16世紀中頃 開山 泰絮宗栄(たいじょそうえい) 開基 北条綱成(ほうじょうつなしげ) 玉縄三代城主の北条綱成が建立した瑞光院ともいわれる香華院がこの寺のはじまりといわれ、玉縄北条氏の菩提寺として栄えました。 本堂には、釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩がまつられており、玉縄歴代城主である北条綱成、北条氏繁、北条氏勝の位牌や源実朝の位牌も安置されています。 また、境内には「正徳の治」を行なったことで知られる朱子学者の「新井白石の牌」があります。 山門を入ったすぐ右には、玉縄ふるさと館があり、その先には、もと関谷にあった江戸時代中期の民家である国指定重要文化財の旧石井家住宅があります。 境内の様子。 この辺りを七騎谷と云う。 殺害された将軍源実朝の首を持って逃れてきた七騎の武士らが一時的にここに身を潜めたことに由来。 本堂。 本堂そばに玉縄北条氏供養塔。 説明板。 国の重要文化財。 説明板。 そして、玉縄ふるさと館。 「北条早雲と鎌倉そして玉縄城展」が開催されていました。 歴代城主。 昔の地図。 奥にも。 龍宝寺付近。 龍宝寺から玉縄城への案内板。 玉縄城遠景。 ちょっと寄り道。 龍宝寺北隣の諏訪神社へ。 由緒書。 【由緒】 この神社は、今からおよそ420年前当時の玉縄城主北条綱成公が、軍神の称ある信州諏訪の御名方富命・八坂刀売命2座の神霊を玉縄城内の諏訪壇に勧請したものと伝えられている。 その後、神社は元和年間玉縄城の廃城、さらに幾星霜を経て現在のこの位置に移された。この時すでに鎌倉権五郎景政一門の霊を祀った御霊神社があり、この神社と諏訪神社と合祀され村民の両大社への崇敬あつく、五穀豊穣、村内安全と繁栄を祈願する祭典が毎年行われている。 ちなみに北条綱成公は、黄八幡といわれた有名な武将であったが、天正15年73才で没した。公一門の墓は社殿脇の山頂にある。 昭和63年12月吉日 諏訪神社 登る。 社殿。 北条綱成一門の墓は、現在龍宝寺供養塔の脇に移されている。 社殿脇の山頂にあった頃は、いつも塔が倒れていて、誰かが直しておくとすぐにまた倒れているので地元の人は「ぶっけり仏」と呼んでいたそうです。 玉縄城へ向かいます。 諏訪神社前の交差点を斜めに。 細い道を進む。 右へ曲がる。 この辺りに玉縄番匠屋敷があった。 長屋門が目印。 七曲坂。 登る。 冠木門。 七曲坂の看板。 曲がってます。 見下ろす。 曲輪が段々に連なっているようにも見えた。 玉縄城掲示板。 玉縄城の旗。 さらに登る。 振り返る。 シャガ。 玉縄城の入り口が見えてきました。 また七曲坂を振り返る。 玉縄城へ入る。 北側の高台は土塁跡。 南側には太鼓櫓があった。 行ってみる。 植木1号市民緑地になっている太鼓櫓跡。 説明板。 説明板にあった太鼓櫓周辺の図。 七曲坂は太鼓櫓の南側を廻り込んでいたようだ。 太鼓櫓跡から本丸を見る。 太鼓櫓跡の先にも曲輪が連なっていた。 大手門跡。 絵図。 模型で。 七曲曲輪から本丸を見上げる。 本丸は清泉女学院中学高等学校になっていて中に入れない。 植木1号市民緑地にあった絵図で。 本丸はドーナツのような土塁で囲まれていた。 昭和30年代半ばまで残っていたそうな。 陣屋坂との交差点。 階段を登る。 城址碑。 【玉縄城址】 玉縄城は永正9年10月北条早雲の築くところたり。 大永享保の頃は北条氏時之に居り、天文初年より一族北条綱成居城す。 天正18年小田原北条滅亡の際、城主氏勝降伏し後、城は徳川氏の有となり、程なく廃城となりしものなり。 昭和31年3月建 鎌倉友青会 庚申塔。
この辺りには円光寺があった。 坂を南へ下る。 坂の名は陣屋坂。 こちらが大手かな? 付近の字名は相模陣。 名の由来は、南を守る陣屋があった所とか、江戸時代初期に玉縄藩主松平正綱が陣屋を置いた所とか。 模型で。 陣屋坂を登って再び玉縄城へ。 大手門方面を見る。 この辺りに堀があったようですが… 付近の町名は「城廻」。 玉縄城の形状にふさわしい町名。 何かないかとぐるーっと廻ってみる。 西側の住宅地。 くいちがいの西付近かな? 西側の城宿稲荷神社から北西を見下ろす。 本丸の北側を見下ろす。 玉縄城本丸を北から見る。 平野家住宅長屋門。 玉縄城の北側の住宅地は「早雲台」。 校内にある諏訪壇へ行ってみたかったなぁ〜。 また七曲曲輪へ戻る。 ふあん坂を下る。 往時から残る坂とか。 坂の出口。 久成寺がある。 境内には、鎌倉幕府三代将軍源実朝を暗殺した公暁を討ったとされる長尾定景一族の墓がある。 境内の南にあるこんもりした山は二伝寺砦があったところ。 模型で。 その南に支城である高谷トリデ(村岡城)があった。 今は「村岡城址公園」になっている。 二伝寺の東にある円光寺。 玉縄城廃城後に本丸南から移ってきた。 境内から玉縄城南側を見る。 大船駅へ戻る。 学校建設などで壊しちゃったのはもったいないなぁ〜 |


