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【寿福寺】 源頼朝が没した翌年、妻の北条政子が明菴栄西を開山に招いて建立した鎌倉五山第三位の寺です。 鎌倉幕府三代将軍の源実朝も、再三参詣しました。 栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧で、『喫茶養生記』を著すなど、お茶を飲む習慣を日本に伝えたことでも知られています。 裏山の「やぐら」(中世の横穴墳墓)には、源実朝、母・政子の墓といわれる五輪塔があります。 墓地には、俳人・高浜虚子や作家・大佛次郎などが眠っています。 寿福寺境内説明板。 ここは、源義朝の館があった所と云う。 総門前に碑が建っています。 脇に源実朝生誕800年記念の碑。 説明。 参道を進む。 美しい石畳の参道の先に中門。 通常非公開。 たまに公開。 扁額。 正式名称は「壽福金剛禅寺」。 境内の様子。 仏殿。 鐘楼。 創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院だったが、現在の境内はあまり広くない。 境内を出る。 参道を戻る。 つつじ。 総門へ戻ってきました。 別の日。 山号の扁額。 参道。 参道の梅。 参道を進む。 中門。 今日は閉まっていた。 境内を覗く。 頭上注意! 中門前を右へ進む。 庫裏で御朱印を頂く。 鐘楼。 参道を戻る。 総門の左脇を進む。 足元注意! 落石の危険があるため、迂回して進む。 墓地の奥に源実朝の供養塔。 その横に北条政子の供養塔。 北条政子、源実朝ゆかりの梛の葉。 どこ? 墓地には、陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの著名人も眠る。 最後に御朱印。 国指定史跡の寿福寺でした。 (おまけ) 寿福寺総門の南に位置する八坂大神。 由緒書。 【八坂大神(相馬天王)由緒】 鎮座地 鎌倉市扇ヶ谷1-13-45 祭神 素戔雄尊 桓武天皇 葛原親王 高望王 例祭 7月12日 <由緒> 建久3年、相馬次郎師常、己が邸内に守護神として勧請して崇敬したのに始まる。 その後、現在の地に奉遷する。 世に相馬天王と称するのはこの故である。 神幸式は、5日、12日の両日に行われていたが、今では12日のみとなった。 中世御神幸の神輿荒ぶるを以て師常館の岩窟に納め、新たに調進したと傳へられる。 独特の六角神輿は、宗社である京都祇園八坂神社の形を伝承したものである。 享和元年、慶應元年に社殿の改築が行われた。 明治6年、村社に列格される。 相馬氏は千葉氏の一族なので、千葉氏の守護神である「牛頭天王」を祭っていたのかな。 社殿。 相馬師常邸は、もう少し南にあったそうです。 行ってみる。 鎌倉駅方面へ南下。 途中に結の蔵。 秋田県湯沢市に明治21年(1888)に建てられ、平成16年(2004)に現在地に移築された。 巽神社。 由緒書。 【巽神社(巽荒神)由緒】 鎮座地 鎌倉市扇ヶ谷1-9-7 祭神 奥津日女命 奥津日子命 火産霊命 例祭 11月28日 <由緒> 御祭神は竈の神、火の神として霊験あらたかな神で、延暦20年、坂上田村麻呂東夷鎮換の際、葛原岡に勧請したと伝えられる。 永承4年に源頼義が社殿を改築す。 その後(年代不詳)現在の地に遷座された。 古くは壽福寺の鎮守神として崇敬され、その位置が壽福寺の巽の方に当るので巽荒神と称された。 天正19年に社領1貫文を賜った。 近世に至って浄光明寺の持ちとなり、明治6年に村社に列格された 巽神社。
寿福寺の東南に位置する。 ここまで寿福寺の境内だったのかな? 隣りに相馬師常の邸宅があったそうです。 |
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所在地 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-16-3 山号 東光山 宗派 浄土宗 本尊 阿弥陀三尊像 創建 寛永13年(1636) 開基 英勝院尼、玉峯清因尼(開山) 詳しい地図で見る 【英勝寺】 初期の江戸城を築城した太田道灌の子孫で、徳川家康に仕えたお梶の方(英勝院)が道灌の屋敷跡に建てた尼寺です。 お梶の方が一緒に行くと戦に勝利したことから、改名して、お勝という名になったそうです。 お勝の方は、水戸将軍家の初代頼房の養母であったことから代々水戸家の姫が住職を務めています。 江戸時代は水戸御殿と呼ばれたほど格式が高く、総門には三葉葵の紋を掲げ、さながら武家屋敷のような境内でした。 仏殿、祠堂、唐門、鐘楼は江戸時代初期の建築で、これだけよくそろい、当時のままで残っている寺は少なく貴重です。 ここは太田道灌邸跡です。 総門前に碑が建っています。 【太田道灌邸舊蹟】 此の地は武略文藻兼ね備え忝くも 武藏野は萱原の野と聞きしかどかかる言葉の花もあるかな てふ叡感にさえ預りたる道灌太田持資が江戸築城前の邸址なり 寛永11年(1634)今の英勝寺と為る其の創立者水戸藩祖頼房の准母英勝院は道灌の嫡流太田康資の女なるより晩年将軍家光より特に此の地を授りて之に住するに至れるなり 孤鞍雨を衝いて茅茨を叩く少女為に遣る花一枝の詩趣ある逸話は道灌が壮年猶此に在りし日に於て演ぜられし所のものなり 大正10年3月建之 鎌倉町青年會 惣門から約60m北に入り口。 入り口から境内を見る。 あまり広くない。 小仏様。 鐘楼へ向かう。 梅林の梅。 鐘楼。 国の重要文化財。 説明板。 奥に惣門。 惣門を境外から見る。 鐘楼と惣門。 山門へ。 山門。 関東大震災後売却され鎌倉市小町の私有地に移築されたが、平成23年(2011)に、旧部材を用いて復興された。 国の重要文化財。 山門に掲げられた扁額。 山門越しに仏殿を見る。 仏殿。 国の重要文化財。 説明板。 唐門。 国の重要文化財。 説明板。 国の重要文化財。 仏殿へ戻る。 本尊、阿弥陀如来立像。 仏殿から山門を見る。 寒っ〰 春はもうすぐ。 庫裏へ。 庫裏から仏殿を見る。 最後に御朱印。 国の重要文化財がたくさんある英勝寺でした。 (おまけ) |
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所在地 神奈川県鎌倉市扇ガ谷4-18−8 山号 扇谷山 宗派 臨済宗建長寺派 本尊 薬師如来 創建 建長5年(1253) 、中興 応永元年(1394) 開基 宗尊親王、藤原仲能(開山)、中興 上杉氏定、心昭空外(開山) 仮粧坂切通入り口から扇ガ谷をさらに奥に進む。 境内入り口。 寺標。 参道脇に説明板。 【海蔵寺】 鎌倉時代、七堂伽藍を持つ規模の大きい寺があったと伝えられますが、鎌倉幕府滅亡時に焼失し、その後、応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満の命で、上杉氏定が心昭空外を招いて再建され、扇ガ谷上杉氏の保護を受けて栄えました。 この寺には多くの言い伝えがあります。 空外は「那須の殺生石」の話で有名です。 仏殿の薬師如来坐像は「啼薬師」、「児護薬師」といわれ、胎内には仏面を収めており、啼薬師伝説があります。 門前には、「千代能が いただく桶の 底脱けて 水たまらねば 月もやどらじ」と歌われたと伝えられる「底脱の井」や、鎌倉時代の遺跡である「十六の井」もあり、水の寺といわれています。 脇の文学案内板。 参道脇に底脱の井。 説明板。 山門へ。 脇に小さな門。 山門は四脚門。 扁額。 山門から境内を見る。 清水基吉句碑。 境内右手に鐘楼。 鐘楼。 3月は境内に梅が咲き誇る。 近づく。 鐘楼の芝。 南天。 山門脇の門への石畳。 庫裏。 ここが朱印所。 御朱印をもらう。 温室かな。 庫裏を後にする。 本堂へ。 本堂と庫裏の間の廊下にある玄関。 覗いてみる。 奥に庭園があるが、通常非公開。 本堂前の海棠。 東国花の寺百ヶ寺の一つです。 本堂。 龍護殿ともいいます。 十一面観世音菩薩を安置。 本堂から境内を見渡す。 釣灯篭。 本堂脇のやぐら。 宇賀神の像が祀られている雨宝殿。 復興寄師芳君之碑。 仏殿 (薬師堂) 。 浄智寺から移築したものだそうです。 苔の道。 梅。 石像。 十六の井へ向かいます。 境内で拝観料を納める。 パン工房くるみるく。 やぐらのあるトンネルを抜ける。 十六の井。 内部の様子。 戻る。 きれいに刳り貫かれた蜜柑。 山門前へ。 シダ。 参道へ戻ってきました。 もう一度山門から境内を覗いてみる。 最後に御朱印。 扇ヶ谷の奥にある海蔵寺でした。 (おまけ) |
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場所 神奈川県鎌倉市扇ヶ谷、佐助 葛原岡神社から源氏山公園を南へ進んだ所に説明板が建っています。 国指定史跡【仮粧坂】 仮粧坂は、鎌倉の北西から武蔵方面へ抜ける「鎌倉往還上ノ道」(武蔵路)の出入り口にあたります。 鎌倉の交通の要衝であったことから、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となっています。 『吾妻鏡』建長3年(1251)12月3日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えても良い場所の一つとして「気和飛坂山上(仮粧坂の山上)」と書かれています。 坂頂上部は葛原岡とも呼ばれ、元弘2年(1332)後醍醐天皇の倒幕計画に関わった日野俊基が斬首された刑場でもありました。 指定地内北側には地蔵像や五輪塔などの浮彫りをもつ特徴的なやぐら群(瓜ヶ谷やぐら群)があります。 また周辺の発掘調査では多数の火葬跡が発見されており、仮粧坂が交通の要衝であると同時に、都市鎌倉の境界に位置する葬送の地であったことが明らかになっています。 平成21年12月 鎌倉市教育委員会 冬の仮粧坂。 つるつる滑って危険。 時期を変えてリベンジ! 頂上から鎌倉市街へ。 振り返る。 この先は道が幾筋かあって、どれが仮粧坂か解らないらしい。 冬でなくても小石が散乱していて滑りやすい。 要注意! 振り返る。 滝のよう。 九十九折になっています。 民家が見えてきました。 振り返る。 車道の終点を振り返る。 ここに石碑。 舗装された車道を下って行きます。 振り返って仮粧坂を見上げる。 かなり急な坂だったと解ります。 仮粧坂入り口へ。 仮粧坂入り口。 ここからではこの先に急な坂があることが解らない。 海蔵寺へ向かいました。 (おまけ) |
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場所 神奈川県鎌倉市梶原5-9-1 主祭神 日野俊基 創建 明治20年(1887) 浄智寺から尾根づたいに進む。 葛原岡神社まで200m。 大堀割。 鎌倉城の遺構とか。 尾根づたいを進む。 登る。 こんな所にも来るの? さらに進む。 葛原岡神社に到着。 鳥居脇の社務所で御朱印を貰う。 鳥居。 魔去ル石。 盃をこの石に当てると幸せを勝ち取れるらしい。 由緒書。 金魚が泳いでいます。 縁結び石。 恋みくじ。 絵馬がハート型でした。 手水舎。 吐いておられました。 合鎚稲荷社。 無患子の木。 合鎚稲荷社の社殿。 梅の花。 参道を進む。 宮下翠舟が扇が谷の草庵にて詠んだ歌。 「鎌倉に雪ふる雛乃別れかな」 本殿へ進む。 本殿前の由緒書。 昇運の神龍。 本殿を斜めから。 本殿脇の日野俊基終焉の地。 季節はずれの桜が咲いていました。 七分咲きくらいかな。 周りはまだつぼみでした。 本殿へ。 参道を戻る。 社務所前にある葛原岡神社の今昔写真。 日野俊基の墓へ向かう。 鳥居脇に藤原仲能墓の碑。 墓らしきものは無いが… 【藤原仲能之墓】 此処ハ道智塚或ハ阿古耶尼ノ塚ト傳ヘラレシモ海蔵寺傳ニ拠リ藤原仲能ノ墓所ト考察セラル 仲能ハ従五位下前能州大守ニシテ鎌倉幕府評定衆タリシガ後年海蔵寺中興ノ大檀越トナリ建長8年12月9日寂シ道智禅師ト称ヘラレシモノノ如ク其位牌同寺ニ現存ス 昭和11年3月建 鎌倉町青年團 日野俊基の墓所入り口。 説明板。 国指定史跡 【日野俊基墓】 指定 昭和2年4月8日 日野俊基は鎌倉時代末期の朝臣 後醍醐天皇につかえ討幕計画に参加した。 正中の変(1324)に捕えられ許されたが、元弘の乱(1331)の時再び捕らえられ、鎌倉に送られて、翌年ここ葛原岡で処刑された。 平成3年7月15日 鎌倉市教育委員会 石碑。 【俊基朝臣墓所】 藤原俊基朝臣ノ朝権ノ回復ヲ図リテ成ラズ元弘2年6月3日北条高時ノ害ニ遭ヒ 秋を待たで葛原岡に消ゆる身の 露の恨や世に残るらん ト永キ恨ヲ留メタルハ此ノ処ナリ 大正6年3月建之 鎌倉町青年団 墓所。 最後に御朱印。 パワースポットとして訪れる人が多い、葛原岡神社でした。 (おまけ) |






