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登城日 2012年 5月 6日(日)曇 難易度 ☆ 場所 富山県高岡市二塚 【二塚城】 城跡は小字「星丸」にあるという。 元弘3年、越中守護名越時有らが宮方の軍勢を防ぐため布陣する(『太平記』)。 付近には「館」姓の家もある。 (日本城郭大系より) 最寄駅はJR城端線二塚駅です。 中世越後の武士・岩本兼佐がこの地で亡くなった際、「この地に白山神社の分社を祀り金の御幣と金の鷹を貢物として奉げてください。」との遺言を残した。 この2つの神への貢物を、2つの塚に埋めたことが二塚の地名の由来と云う。 ということは、二塚城が築城された時はこの辺りは「二塚」では無かったということかな? 駅前の道を東へ進む。 途中にある二塚公民館鎧分館。 付近の字名は「鎧」。 千保川を渡ると微高地となる。 真っすぐ進むとやがて民家に突き当り、道は北へと進路を変える。 この辺りには、確かに「館」姓の家がありました。 この角に恒性皇子の墓があります。 角にあるこの碑は何と書いてあるのだろう? 富山県内で唯一の宮内庁管理の墓だそうです。 説明板。 【恒性皇子御墓由来】 恒性皇子は、第96代後醍醐天皇の皇子で、元弘の変(1331〜1333)の折、父天皇と共に鎌倉幕府(北条氏)の討伐を企てられたが失敗し、天皇は隠岐の島に配流、恒性皇子は幕軍に捕らえられ元弘2年(1332)3月、越中の守護名越時有のもとに幽閉された。 元弘3年(1333)2月天皇が隠岐の島を脱出されてから天皇方の軍が各地に興り、幕府の形勢は日々傾いたが、皇子は鎌倉幕府滅亡の直前に当る同年6月30日(旧暦5月10日)、幽所で時有によって殺害された。 この東二塚地区には、古来、皇子にまつわる数々伝えられており、明治45年(1912)1月29日宮内省ならびに地元官民有力者の尽力によって、射水郡二塚村二塚の俗称、太子墓の古墳(現在地)を宮内省告示第一号により皇子の墓と定められた。 この墓がある辺りに二塚城があったらしい。
特に城跡っぽいものは見当りませんでした。 北へ進む。 墓の北側にある浄誓寺。 ここで恒性皇子が写経に励んだと云う。 境内入り口に「恒性皇子扈従三朝臣慰霊碑」が建っています。 従った三朝臣とは、勧修寺家重、近衛宗康、日野直通の3人。 境内の様子。 ここも城跡だそうですが、特に遺構は見当りませんでした。 さらに北へ進むと、 田んぼの中に碑が建ち並んでいる区画があります。 ここに城址碑があります。 城址碑。 太刀(館)城が正式名称なのだろう。 隣りは「三ヶ首」の碑。 恒性皇子に従った、勧修寺家重、近衛宗康、日野直通の3人は殺害され、その首をさらした場所を示している。 その隣りは「鐘堀」。 越中守護・名越遠江守時有が二塚城にいた時、2個の梵鐘を作らせました。 1つは城の時鐘とし、もう1つは寺に寄進しましたが、2つとも無くなってしまいました。 後世、二塚城の濠を利用して用水を作った時、1つの梵鐘が見つかりました。 見つかった場所は「鐘堀」と呼ばれるようになったと云う。 ということは、ここは堀があった所かな? 見つかった鐘は現在浄誓寺境内の釣鐘となっています。 城址碑から南を見る。 東を見る。 北を見る。 西を見る。 城跡らしいものは何も無かった。 恒性皇子が幽閉された場所は気多社(悪皇寺宮、高岡市二塚580番)で、皇子を火葬した場所は「皇子三昧」(みこざんまい)といわれ碑が建っているが見落としました。 城址碑を後にする。 今でさえ城跡が解からない二塚城ですが、付近には北陸新幹線の新高岡駅が出来るらしい。 開通したら風景が一変することだろう。 |
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