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場所 神奈川県鎌倉市十二所、横浜市金沢区朝比奈町 梶原景時邸跡から東へ約800m進んだ所を右折。 泉橋を渡り、太刀洗川沿いを進みます。 3分も歩くと舗装も途切れ山深くなります。 切通しという感じになってきました。 太刀洗水。 鎌倉五名水の一つ。 寿永2年(1183)12月、梶原景時は源頼朝の命により上総広常を誅殺。 この場所で太刀を洗い清めたと云う。 切通し入口。 説明板。 【朝夷奈切通】 朝夷奈切通は、いわゆる鎌倉七口の一つに数えられる切通で、横浜市金沢区六浦へと通じる古道(現在の県道金沢・鎌倉線の前身)です。 鎌倉時代の六浦は、鎌倉の外港として都市鎌倉を支える重要拠点でした。 『吾妻鏡』には仁治2年(1241)に、幕府執権であった北条泰時の指揮のもと、六浦道の工事が行われた記事があり、これが造られた時期と考えられています。 その後、朝夷奈切通は何度も改修を受けて現代にいたっています。 丘陵部に残る大規模な切岸(人工的な崖)は切通道の構造を良く示しており、周辺に残るやぐら(鎌倉時代の墓所)群・切岸・平場や納骨堂跡などの遺構と共に、中世都市の周縁部の雰囲気を良好に伝えています。 平成21年3月 鎌倉市教育委員会 石碑。 【朝夷奈切通】 鎌倉七口の一にして鎌倉より六浦へ通ずる要衝に當り、大切通小切通の二つあり。 土俗に朝夷奈三郎義秀、一夜の内に切抜たるを以て其名ありと傳へられるも、東鑑に仁治元年(皇紀1900)11月、鎌倉六浦間道路開鑿の議定あり。 翌2年4月、經營の事始ありて執権北条泰時、其所に監臨し、諸人群集し各土石を運びしこと見ゆるに徴し此切通は即ち当時に於て開通せしものと思料せらる。 昭和16年3月建 鎌倉市青年団 三郎の滝。 一夜にして朝夷奈切通を開鑿したと云う朝比奈三郎義秀に因む。 この奥に上総広常の屋敷があったと云う。 先へ進む。 少し進んで振り返る。 この辺りは川底を歩いているような感じです。 石仏。 振り返る。 切通しの頂上。 相模国と武蔵国の境かな? 岩盤に石仏が彫ってある。 国境を越える。 やぐらかな? 落石に注意! 振り返る。 下って行きます。 熊野神社参道入り口。 由緒書。 鎌倉の鬼門の守護神として祀られた神社とか。 行こうと思い進みかけたが止めた。 進む。 土嚢が敷き詰めてある。 また切通しっぽい所。 小切通かな。 抜けると横浜横須賀道路が見えてきた。 切通しの頭上に出来た横浜横須賀道路。 石仏。 朝夷奈切通し終点。 こちらにも説明板。 説明板。 【朝夷奈切通】 朝夷奈切通は、鎌倉幕府が、仁治2年(1241)に鎌倉と六浦(現、横浜市金沢区)を結ぶ重要交通路として、山稜部を開削して建設した道路です。 幕府の歴史を記録した『吾妻鏡』には、執権北条泰時自ら現場に出向いて工事を指揮したとあります。 当時の六浦には天然の良港があり、切通の開通によって幕府はこれを鎌倉の外港とし、東国や中国大陸との物流の拠点としました。 六浦と朝夷奈切通は、幕府と都市鎌倉を政治的・経済的に支える重要な役割を果たしました。 朝夷奈切通は、その後崩落するたび改修されて現在に至っていますが、横浜市側に小切通、市境の峠に大切通という山を深く掘り下げた特徴的な遺構や、道沿いに中世の納骨施設である”やぐら”が多く残っています。 また、大切通の南側山腹には、鎌倉の守護神と伝えられる熊野神社があり、江戸時代に再建された後、氏子たちによって社殿と祭事が現在に受け継がれています。 平成25年8月 横浜市教育委員会 もう一つ。 【朝夷奈切通】 鎌倉幕府は、仁治元年(1240)六浦津との重要交通路として、路改修を議定、翌年4月から工事にかかりました。 執権北条泰時自らが監督し、自分の乗馬に土石を運ばせて工事を急がせたといいます。 当時の六浦は、塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港でした。 舟で運ばれた各地の物資は、この切通を越えて鎌倉に入り、六浦港の政治的・経済的価値は倍増しました。 また、鎌倉防衛上必要な防禦施設として、路の左右に平場や切岸の跡とみられるものが残されています。 鎌倉市境の南側には、熊野神社がありますが、これは鎌倉の艮(鬼門)の守りとして祀られたと伝えられています。 鎌倉七口の中、最も高く嶮岨な路です。 社団法人 横浜国際観光協会 横浜市教育委員会文化財課 平成2年3月 終点を振り返る。
帰りのバス停。 この奥に上総広常の供養塔があることを知ったのは帰宅後でした。 バス停から梅林を見下ろす。 約30分の道のりでした。 |
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