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登城日  1回目 2001年 5月(GW) 晴
     2回目 2014年 1月 4日(土)晴
難易度  ☆
場所   山梨県韮崎市中田町中條4787

甲斐武田氏最期の居城です。

詳しい地図で見る

最寄駅は新府駅。
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JR高尾駅から中央本線の普通で約2時間です。
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新府城は駅の東に位置しています。
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矢印に沿って進みます。
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この辺りは桃源郷。
春はきれいなんだろう。
遠くに富士山が見えました。
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駅から10分弱で新府城到着!
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本丸にある藤武神社参道入り口。
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参道を進むと、旧甲州街道と山梨県道17号線との間に大きな堀跡がある。
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南側。
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北側。
首洗池と命名されている。
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池の真ん中に小さな土塁跡。
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旧甲州街道を進む。
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堀を二分する大きな土塁。
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北側を見る。
この先で堀は直角に左へ曲がる。
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南側の首洗池を見る。
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土塁の斜面に石垣らしきものがあった。
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首洗池を南から見る。
底が畝っていて不思議な堀でした。
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県道を走る車に気を付けて新府城本丸へ向かいます。
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ここに説明板。
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【国指定史跡 新府城】
指定年月日 昭和48年7月21日
指定面積 23.87ha

新府城は正式には新府中韮崎城といい、天正9年(1581)春、 武田勝頼が甲斐府中として城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。
勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、 退勢の挽回を期した結果であろう。
築城工事は昼夜敢行で行われ、着工後約8ヶ月余りで竣工した。
ついで城下町も整ったので、新府韮崎城と名づけ、同年12月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。
しかし、戦局は日に悪化して翌年3月、 勝頼は織田軍の侵攻を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。
廃墟と化したこの城も、同年6月本能寺の変で織田信長が滅び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、家康はこの城跡を修築して本陣とし、 われに5倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城新府の真価を発揮したのである。
この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、 その地形を良く生かして築かれその城地の特色は城外から俯瞰されないことで縄張りの特徴は北方に東西2基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、 従来の城郭には見ることのない斬新な工夫である。
現存する主な遺構は、頂上の本丸を中心に西に二の丸、南に三の丸、大手、三ヶ月堀、馬出、 北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、帯曲輪があり北から東に堀が繞らされている。
史跡指定区域は約20ヘクタールにおよぶ広大なものであるが、 この外側には武将らの屋敷跡と伝えられる遺構、遺跡が散在している。

昭和59年12月25日
文化庁
山梨県教育委員会
韮崎市
韮崎市教育委員会
韮崎市観光協会

見取図。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dd-61/kanezane3/folder/463061/08/13087208/img_35?1418518432
当時は無かった参道の階段を登って行きます。
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帯郭に二の鳥居。
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帯郭北側。
新府城北側の出構へ行くことが出来ます。
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帯郭南側。
大手へ行くことが出来ます。
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さらに登って行きます。
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かなりの急斜面です。
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階段を登るのがしんどい人は、こちらも当時は無かったであろう乙女坂へ。
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本丸が見えてきました。
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振り返る。
東側はこのような急斜面。
西側は七里岩の断崖絶壁。
かなり攻城に手こずりますね。
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藤武神社へ。
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藤武神社境内。
藤井庄と武田庄とを前後に見下す所に在るので藤武神社というらしい。
武田勝頼が鎮守として祀ったが落城とともに焼失、その後徳川家康が再建したと云う。
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境内は稲荷郭。
稲荷郭にある舞殿。
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舞殿から稲荷郭を見る。
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稲荷郭を北へ。
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北東隅付近。
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北側は草茫々。
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再び藤武神社に戻り稲荷郭を見下ろす。
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藤武神社の脇から本丸へ。
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ここに想定復元図。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dd-61/kanezane3/folder/463061/08/13087208/img_36?1418650267
裏に新府城説明板。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dd-61/kanezane3/folder/463061/08/13087208/img_39?1418650267

本丸の様子。
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もう一つ説明板。
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【国指定史跡 新府城跡】
昭和48年7月21日指定

新府城は、天正10年3月織田軍の侵攻を前に、武田勝頼自ら火を放って東方郡内領岩殿城を指して落ちていった武田家滅亡の歴史を伝える悲劇の城跡である。
本城は南北600m、東西550m、外堀の水準と本丸の標高差80m。
形式は平山城で、近世城郭のような石垣は用いず、高さ約2.5mの土塁を巡らしている。
最高所は本丸で、東西90m、南北120m、本丸の西に蔀の構を隔てて二の丸があり馬出しに続く。
本丸の東に稲荷曲輪、二の丸を北方に下れば横矢掛りの防塁があり、その外側に堀を巡らしている。
堀は北西から北、北東へと巡り、北方の高地からの敵襲に備えて十字砲火を浴びせるための堅固な二ヶ所の出構が築かれている。
三の丸の南方には大手が開け望楼があり、三日月形の堀とその外側に馬出しの土塁が設けてある。
本丸と東西三の丸、三の丸と大手等の間には、帯曲輪、腰曲輪がある。
搦手にも望楼がある。
蔀の構、出構は新府城の特色で防御のために工夫されたもので、特に出構は鉄砲のような新鋭兵器をもって敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれる。

昭和63年3月
文化庁
山梨県教育委員会
韮崎市教育委員会

新府城跡概要図。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dd-61/kanezane3/folder/463061/08/13087208/img_37?1418650267
北へ。
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武田勝頼公霊社。
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説明板。
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本丸北側の土塁。
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能見城を見下ろす。
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本丸を見渡す。
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腰曲輪を見下ろす。
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本丸西側の斜面は緩やか。
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土塁上を進む。
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この辺りは本丸西側の虎口かな。
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ここに虎口があったようだ。
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下の曲輪を見下ろす。
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本丸を見渡す。
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新府城本丸跡の碑。
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普請奉行は真田昌幸と原貞胤。
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武田勝頼の在城はわずか68日だった。
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昭和48年7月21日に史跡指定された。
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本丸東南隅の方を見る。
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本丸東側の土塁。
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稲荷郭方面を見下ろす。
こちらは急斜面。
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本丸西南隅の方を見る。
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本丸東南隅から本丸を見る。
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三の丸方面を見下ろす。
こちらはなだらかな斜面。
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本丸南側の土塁。
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土塁上を進む。
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振り返る。
内側を見る。
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外側を見る。
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再び三の丸方面を見下ろす。
腰曲輪があったらしい。
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本丸西南隅に蔀の構があった。
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説明板。
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蔀で城内が見えないように工夫していたとか。
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手前の土塁の先端は、車道建設時に破壊されている。
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蔀の構を進む。
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二の丸から三の丸へ向かいます。
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つづく

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